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阴阳师-日文版

admin 2019-07-23 日语 评论

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夢枕 獏

陰 陽 師



目 次


 玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること

 梔 子 の 女

 黒 川 主

 蟇

 鬼のみちゆき

 白 比 丘 尼


 あ と が き

[#改ページ]


     一



 奇妙な男の話をする。

 たとえて言うなら、風に漂いながら、夜の虚空に浮く雲のような男の話だ。

 闇に浮いた雲は、一瞬前も一瞬後も、どれほど|かたち《ヽヽヽ》を変えたようにも見えないが、見つめていれば、いつの間にかその姿を変えている。同じ雲であるはずなのに、その在様《かたち》の捕えどころがない。

 そんな男の話だ。

 名は、安倍晴明《あべのせいめい》。

 陰陽師《おんみようじ》である。

 生まれたのは延喜《えんぎ》二十一年の頃、醍醐《だいご》天皇の世《とき》らしいが、この人物の生年没年は、この物語とは直接関係がない。物語のおもしろみとしては、そんな数字などははっきりさせぬ方がかえっていいのかもしれない。

 それはいずれとも決めまい。

 ほどよく、成行《なりゆき》に応じて、自由に筆を進めてゆこうと思う。そういうやり方こそが、この人物の話をするにはふさわしかろう。

 平安時代──

 闇《やみ》が闇として残っていた時代で、人々の何割かは、妖《あや》しのものの存在を確実に信じていた頃である。遠境《えんきよう》の森や山の奥ではなく、人も、鬼も、もののけも、同じ都の暗がりの中に、時には同じ屋根の下に、息をひそめて一緒に棲《す》んでいたのがこの時代である。

 ──陰陽師。

 分かり易く言うなら、占い師とでもいうことになるだろうか。幻術師、拝み屋という言い方もできようが、どれも適確なものではない。

 陰陽師は、星の相を観《み》、人の相を観る。

 方位も観れば、占いもし、呪詛《すそ》によって人を呪い殺すこともでき、幻術を使ったりもする。

 眼に見えない力──運命とか、霊魂とか、鬼とか、そういうもののことに深く通じており、そのようなあやかしを支配する技術を持っていた。

 朝廷につかえる役職のひとつであり、大内裏《だいだいり》の中には陰陽寮まで設けられている。

 晴明自身は、朝廷より、従四位下という位を授《さず》かっている。

 一位が太政《だじよう》大臣。

 二位が左右の内大臣。

 三位が、大納言、中納言である。

 仕事がら、朝廷でも、かなりの発言力を持っていたのではないか。

『今昔物語』の中に、この安倍晴明について、いくつかのおもしろい話が記されている。

 それによると、晴明は、幼いころより、賀茂忠行《かものただゆき》という陰陽師のもとで修行をしていたという。

 そのころから、晴明は、陰陽師としての特殊な才能の片鱗《へんりん》を見せている。

 一種の天才であったらしい。

 晴明がまだ若いころ、ある夜、師の忠行が、下京方面に出かけたと『今昔物語』にはある。

 下京といえば、南の方角である。

 大内裏から朱雀《すざく》門を抜け、朱雀大路を通って、都の南のはずれである羅城《らじよう》門近くまでは行ったかもしれない。

 内裏の中心から羅城門までは、約八里余りである。

 車で出かけた。

 どういう車かは記してないが、おそらくは牛車《ぎつしや》であろう。

 何故、夜に下京するかはやはり記されていないが、馴染《なじみ》の女のもとへしのんでゆくという、そういう設定がふさわしかろう。

 供の者の中には、晴明も混じっている。

 忠行ひとりが車に乗り、供の者は徒歩《かち》である。

 供の者は、晴明を含めて、二人か三人ほどであったはずだ。牛を先導する者と灯りを持つ者──そしてもうひとりが、若い晴明である。年齢は記されてないが、この時の晴明の歳《とし》を想像するに、まだ十代の初めといった頃であったのではないか。

 他の供の者は、気の利いた直垂《ひたたれ》あたりを身につけているが、晴明は、やや古びた小袖袴《こそでばかま》に素足という姿であったろう。身につけているそれは、誰かの着古しである。

 しかし古着を身にまとってはいても、身に帯びた才気が、その貌《かお》だちの中に凜《りん》と鮮やかに見えていたのであれば、いかにもそれらしいが、そうではあるまい。端整な貌だちながら、外見は、どこにでもいそうな同じ歳頃の童子《わらわ》風であったに違いない。

 何かのおりに、どうかするとやけに大人びた奇妙な言動を発することのある、そんな少年ではあったろう。

 師の忠行は、若い晴明の眼の奥に、他人にはない不思議な才気のゆらめきを、時おりは見ることがあったかもしれない。しかし、それはまあそれくらいのものであったはずだ。

 忠行が、晴明の内にひめられた才に気づくのは、この夜の事件によってであるからだ。

 話をもどそう。

 ほとほとと牛車は進んでゆき、都のはずれあたりにさしかかった。

 忠行は、車の中ですっかり寝入っている。

 牛車の横を歩いていた晴明が、ふと前方を見やると、そこに異形のものを見た。

�|艶 《えもいは》ず|怖 《おそろし》き鬼共《おにども》�が、前方から車の方に向かって歩いてくるではないか。

 他の供の者はと見れば、まるで鬼共の姿が見えていない様子である。

 晴明は、ただちに牛車の窓を開け、

「忠行さま──」

 眠っていた忠行を起こし、急いで今自分の眼にしたもののことを告げた。

 眼を覚ました忠行が窓から首を出して前を眺めれば、はたして鬼共が近づいてくるのが見える。

「車を停めよ」

 忠行は供の者に声をかけた。

「牛車の陰に隠れ、息をひそめて動くな。決して物音をたててはならぬ」

 忠行は、方術をもちいて、牛車と自分たちを、鬼共の眼から見えぬようにし、鬼共をやり過ごした。忠行が、晴明を常に自分のそばに置くようになったのは、この後である。

 忠行は、己れの知るところの陰陽道の全《すべ》てを、この晴明に伝えたという。

�瓶《かめ》の水を写《うつ》すが如《ごと》し�

 と、『今昔物語』にはある。

 賀茂忠行という瓶に入っていた水──つまり陰陽の法を、そっくりそのまま、安倍晴明という瓶に移し入れたという意味である。

 忠行の死後、晴明の屋敷は、土御門《つちみかど》大路よりは北、|西 洞院《にしのとういん》大路よりは東にあったという。

 内裏の中心にある紫宸殿《ししんでん》から見て、北東──つまり、艮《うしとら》の方角である。

 艮の方向、すなわち鬼門である。

 平安京の北東に比叡山《ひえいざん》延暦寺があり、内裏の北東に陰陽師安倍晴明の屋敷があるというこの二重の構造は、むろん、偶然ではない。

 平安京という都の形状《かたち》、システムそのものが、藤原種継《ふじわらのたねつぐ》の暗殺事件に関わったという理由で廃太子にした早良《さわら》親王の怨霊から、桓武《かんむ》天皇が身を守るためのものなのである。十年で長岡京を捨て、平安京の建設を始めたのはそのためだ。

 しかし、それは晴明の生まれる前のことである。今回の物語に直接関わってくることではない。

 話を『今昔物語』の方にもどそう。

 さて──

 その鬼門の方角にある屋敷に晴明がいたおり、ひとりの老法師が晴明をたずねてきた。十歳余りの童子を、ふたり、供に連れている。

「どういう用件でまいられたのか──」

 晴明は問うた。

「わたしは、播磨国《はりまのくに》に住む者です」

 法師は答えた。

 名は智徳《ちとく》。

 自分の名を告げてから、老法師は語り出した。

 自分は、以前から陰陽道を習いたいと思っていた。耳にするところによると、陰陽師として、この道に一番優れているのはあなただということである。ほんの少しでいいから、陰陽の法をぜひ自分に教えてはくれまいか──

 そのような意のことを、智徳という老法師は晴明に告げた。

 ──ははあ。

 老法師の言葉を聴いて、晴明は思う。

�此法師《このはふし》は此道《このだう》に賢《かしこ》き奴《やつ》にこそ有《あり》ぬれ。其《そ》れが我《われ》を試《こころ》みむと来たる也《なり》──�

 陰陽道の法に秀《ひい》でた法師が、自分を試しに来たに違いないと、晴明はその老法師の正体に気がついた。

 ──おそらく、この老法師が供に連れているふたりの童子は、識神《しきじん》であろう。

 ふむ。

 と、晴明、心の中で微笑したことであろう。

 識神とは、式神とも書く。

 |しきしん《ヽヽヽヽ》、|しきがみ《ヽヽヽヽ》とも呼び、現在でも残っている陰陽道の流派、四国のいざなぎ流では、式王子《しきおうじ》の名で呼ばれているものだ。

 普段は眼に見えぬ精霊である。

 あまり上等の霊ではない。雑霊である。それを方術により識神としてあやつるのだが、陰陽師の能力によって、あやつられる雑霊のレベルも下等なものになったり上等なものになったりする。

「ほほう」

 うなずきながら、

�なかなかのものではないか�

 晴明は感心した。

 智徳と名告《なの》った老法師の使っている識神が、半端な器量ではとても使いこなせないものであったからである。

「用件は承《うけたま》わりました。しかし、今日は手を放せぬ用事がありましてな──」

 いったん帰っていただいて、後《のち》に吉日《よきひ》を選んで、またお越し願えまいか、と、晴明は老法師に言った。

 言いながら、両手を袖《そで》の内に入れ、その中で密《ひそ》かに印を結び、小さく呪《しゆ》を唱えた。

「それでは後に吉日を選んで……」

 老法師は手をすり合わせ、その手を額にあてて、帰っていった。

 しかし、晴明は動かない。

 そこで腕を組んだまま立って、空などを見上げている。

 やがて、一、二町も行ったかと思えるころ、開いたままの門から、老法師がもどってくるのが見えた。老法師は、道を歩きながら、人の隠れていそうなところ、車寄せなどをのぞいている。

 老法師は再び晴明の前に立った。

「実は、わたしの後をついてきているはずのふたりの童子の姿が、急に見えなくなりましてな。それを返してはいただけませんか」

 老法師は言った。

「返す?」

 晴明はとぼけて老法師に言った。

「私は何もしていませんよ。それは、一緒にいた御坊がよく御存知の通りです。ここに立っていただけのわたしが、どうしてふたりの童子を隠すことができるのですか」

 それを聴いた老法師が晴明に頭を下げて言うには、

「すみません。実はあれは童子ではなくわたしの使っている識神でございます。今日は、あなたの力量を試してやろうとやってきたのですが、とてもわたしの力の及ぶところではございませんでした。お許し下さい」

 おろおろとしている。

「あんた、おれを試すのはいいが、なまなかなことでは、このおれはだませぬよ──」

 晴明、急に口調を変えて、にやりと笑う。

 下品ではないにしても、あまり上品ではない笑みが、その唇に浮いたことであろう。

 その唇で、小さく呪をつぶやいた。

 すると、たちまちふたりの童子が外から走り出てきた。

 そのふたりの童子が、それぞれ酒と肴《さかな》を手にもっていて、

「すぐそこで購《あがな》わせてきた。楽しませてもらったのでな、それを持って帰りなさい──」

 と、晴明がおかしそうに言ったとあればおもしろいのだが、そこまでは『今昔物語』には書かれていない。

 ふたりの童子は走ってもどってきただけである。

 老法師はつくづく感じ入って、

「それにしても、昔から識神を使うことはたやすいのですが、人の使う識神を隠してしまうなど、並のお方のできることではありません」

 興奮して顔まで赤くしている。

 ぜひとも弟子にしてほしいと言って、老法師は自分の名札を書いて晴明に差し出した。

 自分の名を自ら記し、それを相手に渡すというのは、方術をあつかう人間どうしの間では、めったにあることではない。

 それには、相手に自分の生命をあずけるのと同程度の意味がある。

『今昔物語』の記述はまだ続く。

 また、ある時──

 安倍晴明は、広沢の|寛朝 僧正《かんちようそうじよう》という人物の住まいに出かけた。

 若い公達《きんだち》や、僧が多勢いて、何かと晴明に話しかけてくる。

 皆、晴明の噂《うわさ》は耳にしているから、話の内容は自然と方術のことになる。

「あなたは識神を使うということですが、たとえば、それで人を殺すことなどもできるのでしょう?」

 あからさまに訊《き》いてくる者がいる。

「この道の秘事に関することを、ぶしつけにお尋ねなされることですな」

 わざとこわい眼で、晴明はその質問をした公達の顔を覗《のぞ》き込んだかもしれない。

 公達の眼の中に生じた怯《おび》えをちらりと楽しんでから、

「いや、そう簡単に、人など殺せるものではありませんよ」

 微笑して、晴明は公達を安心させてやり、

「まあ、色々と方法はありますがね──」

 そのくらいはつけ加えたかもしれない。

「ならば、小さな虫などは、たやすいということですか」

 別の公達が訊いてくる。

「ええ、まあ」

 そのように晴明が答えていると、庭先を、五〜六匹の蝦蟆《かえる》が跳ねてゆく。

「あのうちの一匹を殺せますか」

 公達が言う。

「ええ。しかし、殺すのはともかく──」

「なにかあるのですか」

「殺すことはできても、生き返らせることはできませんのでね。無益な殺生は罪になります──」

「そこをひとつ──」

「わたしも見たいものですな」

「わたしも」

「わたしも」

 と、公達や僧たちが集まってくる。

 噂はともかく、実際に晴明の方術が、はたしてどれだけのものかという好奇心で、彼等の眼が一様に光っている。

 もし、この場で晴明が言い逃れて術を使うのをやめれば、それはそれで�あの男も噂ほどではないよ�と話のたねにはなるという眼つきである。

 晴明、彼らの顔をひと睨《にら》みして、

「罪なことをさせますな」

 短くつぶやいて右手を伸ばした。

 軒から垂れている柳の新緑の一葉を白い指先でつまんで無造作に摘みとった。

 その葉をひょいと空宙へ投げあげて、呪を唱えた。

 柳の葉は宙を飛んで、ふわりと一匹の蝦蟆の上に舞い降りた。その途端に、蝦蟆はぺしゃんこに潰《つぶ》れて死んでしまった。

 肉や内臓も、周囲に飛び散ったことであろう。

�僧共此《そうどもこれ》を見《み》て、色を失《うしなひ》てなむ恐《お》ぢ怖《おそ》れける�

 と、『今昔物語』は伝えている。

 この晴明、屋敷の中に人のいない時は、識神を使っていたらしい。

 誰も人がいないのに、蔀《しとみ》が上げ下ろしされ、閉ざす人もいないのに、門が閉ざされたりした。

 様々な不思議が、晴明の周囲にはあったらしい。

 この安倍晴明、他の資料もほろほろと眺めてみると、智徳法師や蝦蟆の例と同様に、かなり|みだりに方術を使って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、人を驚かせている。

 そういうことを楽しんでいるようである。すました顔でもったいぶるわりに、子供のような所があるらしい。

 ここから先は想像になるが、この安倍晴明という男、宮仕《みやづか》えをしていながら、どこかいいかげんで、かなり下世話のことにも通じていたのではないか。

 長身で、色白く、眼元の涼しい秀麗な美男子であったろう。

 雅《みやび》な|なり《ヽヽ》をしてそぞろ歩けば、宮中の女共がそれを眺めて噂しあったことだろう。

 やんごとない筋の女から、色っぽい歌を記した文のひとつふたつはもらっていたに違いない。

 上の者には如才がなく、かと思えば、ふいにぶっきらぼうな口をきく。

「おい」

 と、うっかり天皇に声をかけてしまったことくらいはありそうである。

 上品な微笑を浮かべていた唇が、別の時には下品な笑みを溜めたりもする。

 陰陽師という職業がら、人の道の裏側にも通じておらねばならず、宮中にあっては、ほどのよい教養もなくてはならない。

 漢詩のひと通りは諳《そら》んじていようし、歌の才もあり、琵琶《びわ》か笛か、楽器のひとつふたつは、かなりいじることができたのではないか。

 平安時代とは、雅な闇の時代だとぼくは思っている。

 その、たおやかで、雅で、陰惨な闇の中を、風に漂う雲のように、飄《ひよう》ひょうと流れて行った男の話を、ぼくはこれからするつもりなのである。


     二


 |源 《みなもとの》|博雅 《ひろまさの》朝臣《あそん》が、安倍晴明の屋敷を訪ねたのは、水無月《みなづき》の初めであった。

 太陰暦の六月である。

 現代で言うなら、七月の十日をやや過ぎたくらいであろうか。

 梅雨がまだ終らないうちである。

 しばらく降り続いていた雨が、めずらしくあがった日であった。

 しかし、陽光が差しているわけではなく、空は一面に、薄紙を張ったように白っぽい。

 早朝である。

 樹々の葉や草がみずみずしく濡《ぬ》れ、大気はひんやりと冷たかった。

 源博雅は、晴明の屋敷の塀を、右手に見ながら歩いている。

 唐様《からよう》の塀である。

 胸から顔の高さに飾り彫りがあり、上に唐破風《からはふ》の瓦屋根が乗っている。寺か、廟《びよう》を思わせる塀であった。

 博雅は、水干《すいかん》を身にまとい、足には沓靴《かのくつ》をはいていた。鹿皮の沓《くつ》である。

 霧よりもなお細かい水滴が、空気の中に無数に浮いている。

 その大気の中を歩いているだけで、水干の布地がその水滴を吸って重くなる。

 源博雅朝臣──武士である。

 左腰に太刀を帯びている。

 三十代の後半と見える。

 歩き方やものごしに、武辺の士らしい武骨さがあるが、貌がいかついわけではない。

 真面目そうな貌だちをしていた。

 その貌に元気がない。

 うかない貌をしていた。

 胸のうちに、何か心配事があるらしい。

 博雅は、門の前に立った。

 門が大きく開け放たれていた。

 中を眺めれば、庭が見える。

 庭一面季節の草が、昨夜の雨にまだ濡れて、青あおと生い繁っている。

 ──これでは破《や》れ寺ではないか。

 そういう表情が、博雅《ひろまさ》の顔に浮かぶ。

 荒野《あらの》──というほどではないが、ほとんど庭の手入れをしていないらしい。

 その時、博雅の鼻腔《びこう》に甘い花の匂《にお》いが届いてきた。

 その理由がすぐにわかった。

 草の中から、一本、歳経た大きな藤の木が立っていて、その枝にひと房だけ、まだ藤の花が咲き残っているのである。

「本当に帰ってきているのか──」

 博雅はつぶやいた。

 草も樹も、そのままに生い繁らせておくのが好きな男だとは知っているが、これでは少し度がすぎるようである。

 溜め息をついた時、母屋の方角に、ひとりの女が姿を現わした。

 女だというのに狩衣《かりぎぬ》に指貫《さしぬき》を身にまとっている。

 博雅の前まで歩いてくると、女は小さく頭を下げた。

「お待ち申しあげておりました」

 博雅に向かって言った。

 二十歳《はたち》ばかりの、美しい、細面の女であった。

「待っていた?」

「主《あるじ》が、やがて博雅様がお見えになろうから、出むかえて御案内申しあげるようにと──」

 何故わかったのかと思いながら、博雅は女の後に続いた。

 部屋に通された。

 板敷きの床の上に、畳が置いてあり、その上に晴明が胡座《あぐら》をかいて、博雅を見つめていた。

「来たか──」

 晴明は言った。

「よくわかったな」

 言いながら、博雅は、同じ畳の上に腰を下ろす。

「酒を買いにやらせたものが、博雅がこちらへ向かって歩いてくると知らせてくれたのだ」

「酒?」

「しばらく出かけていたのでな、都の酒が飲みたくなったのだ。博雅こそ、おれが帰ってきたと何故わかった?」

「昨夜、晴明の屋敷に灯が点《つ》いていたと、教えてくれたものがいたのだ──」

「なるほど」

「ひと月近くもどこへ行っていた?」

「高野《こうや》へな」

「高野?」

「うむ」

「何故また急に──」

「わからぬことがあった」

「わからぬこと?」

「というよりは、思いついたことがあってな。高野の坊主と話をしてきた」

「なんだ、それは──」

 博雅が訊く。

「しかしなあ──」

 晴明が頭を掻《か》いて、博雅を見やる。

 このふたり、あまり歳はかわらない。

 外見は晴明の方が若く見える。

 若いだけではなく、貌だちも整っている。

 鼻筋が通っていて、唇などは、薄く紅を含んだように赤い。

「しかしなんだ?」

「おまえはよい漢《おとこ》だが、こういう方面の話はあまり興味がないのではないか?」

「だからどういう方面の話なのだ」

「呪《しゆ》よ」

 晴明は言った。

「呪!?」

「呪について、話してきたのだ」

「何を話した?」

「たとえば、呪とは何であるのかというようなことをだ」

「呪とは呪ではないのか──」

「それはまあそうだが、その呪が何かということについて、ふと思いついたことがあったのでな」

「何を思いついた」

 博雅が訊く。

「そうだな、たとえば、呪とは、名《な》ではないかというようなことだ」

「名だと?」

「まあ、せくなよ、博雅。久しぶりに酒でも一緒にどうだ──」

 晴明が、微笑して言う。

「酒をよばれに来たのではないが、出てくる酒を拒みはせぬ」

「まあ、つきあえ」

 晴明が|ぽん《ヽヽ》と手を叩いた。

 すると、廊下をこする衣《きぬ》の音がして、女が膳《ぜん》を手にして姿を現わした。

 酒の入っているらしい瓶子《へいし》と、杯がその上に乗っている。

 まず、博雅の前に膳を置き、いったん退がってから、また膳を運んできて、それを晴明の前に置く。

 それから、女が博雅の杯に酒を注いだ。

 酒を受けながら、博雅は、その女の顔を見つめていた。

 狩衣に指貫という姿だが、先ほどの女とは別人である。やはり二十歳《はたち》ばかりで、ふっくらとした唇と白いうなじのあたりに、匂うような色気があった。

「どうした?」

 晴明が、女を見つめている博雅に問うた。

「さっきの女とは別人だ」

 博雅が言うと、女が、微笑して頭を下げた。

 次は晴明の杯に酒を注いだ。

「人か?」

 博雅は訊いた。

 この女は、晴明のあやつる識神か何かであるのかと、博雅は問うたのである。

「試すか?」

 晴明が言った。

「試す?」

「今夜、博雅の屋敷に忍《しの》ばせようか──」

「からかうな、ばか──」

 博雅が言った。

「では」

「おう」

 と、ふたりは杯の酒を飲み干《ほ》した。

 空になった杯に、女が酒を注ぐ。

 女を見ながら博雅がつぶやいた。

「いつ来てもわからぬな」

 博雅が溜め息をついた。

「何がわからぬ」

「いったい、この屋敷には何人の人間がいるのかと思ってな。いつ来ても新顔ばかりだ」

「まあ、いいではないか」

 答えて、晴明が、皿の上に乗っていた魚の塩焼きに箸《はし》を伸ばした。

「鮎《あゆ》か」

「今朝、売りに来たところを買った。鴨川《かもがわ》の鮎だ」

 ほどよく成長した、大ぶりの鮎であった。

 ほっこりとした身を箸でつまみ取ると、その割れた身から湯気が立ち昇ってくる。

 横の戸が開け放たれていて、庭が見えている。

 女が退出した。

 それを合図のように、博雅が話をもどす。

「さっきの続きだ。呪のことについてだった」

「さあて──」

 晴明、酒を飲みながら声を出した。

「もったいぶるな」

「たとえばだ。この世で一番短い呪とは何だろうな」

「一番短い呪?」

 わずかに考えて、

「おれに考えさせるなよ、晴明。教えてくれ」

「うむ。この世で一番短い呪とは、名だ」

「名?」

「うん」

 晴明がうなずいた。

「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か」

「そうだ。山とか、海とか、樹とか、草とか、虫とか、そういう名も呪のひとつだな」

「わからぬ」

「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」

「───」

「|もの《ヽヽ》の根本的な在様《ありよう》を縛るというのは、名だぞ」

「───」

「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」

「むずかしいことを言う」

「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人だが、おぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる──」

 しかし、まだ博雅は納得のいかぬ顔をしている。

「おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのか──」

「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」

「博雅はおれだ。博雅がいなくなれば、おれもいなくなるのではないのか」

 肯定するでも否定するでもなく、晴明は小さく首を振った。

「眼に見えぬものがある。その眼に見えぬものさえ、名という呪で縛ることができる」

「ほう」

「男が女を愛《いと》しいと想う。女が男を愛しいと想う。その気持ちに名をつけて呪《しば》れば恋──」

「ほほう」

 うなずいても、しかし、まだ博雅にはわからぬ様子である。

「しかし、恋と名をつけぬでも、男は女を愛しいと想い、女は男を愛しいと想うだろう──」

 博雅は言った。

「あたりまえではないか──」

 晴明はあっさりと答えて、

「それとこれとは別のことだ」

 酒を口に運んだ。

「なおわからぬ」

「ならば言い方を変えようか」

「うむ」

「庭を見よ」

 晴明が横手の庭を指差した。

 あの、藤の木のある庭である。

「藤の木があるだろう」

「あるな」

「おれは、あれに、みつむしと名をつけた」

「名を?」

「呪をかけたということだ」

「だからどうした──」

「けなげにもおれが帰るのを待っていた」

「なんだと?」

「花がまだ咲き残っている」

「わからぬことを言う男だ」

 博雅が言う。

「やはり男と女のことで説明してやらねばならぬか」

 晴明は、そう言って博雅を見た。

「説明しろ」

 博雅が言う。

「おぬしに惚《ほ》れた女がいたとしてだな、おぬしでも呪によって、その女に、たとえ天の月であろうとくれてやることができる」

「教えてくれ」

「月を指差して、愛しい娘よ、あの月をおまえにあげようと、そう言うだけでいい」

「なに!?」

「はい、と娘が答えれば、それで月はその娘のものさ」

「それが呪か」

「呪の一番もとになるものだ」

「さっぱりわからぬ」

「わからぬでいいさ。高野の坊主などは、ひとつの真言で、この世の一切を呪にかけたつもりになっているのだからな──」

 さすがに博雅はあきれた顔になった。

「おい晴明、おまえ、高野で、ひと月も坊主とそんな話ばかりしていたのか」

「まあ、そうだ。実際には二十日ほどだったがな」

「呪はわからぬよ」

 博雅は、酒を口に運んだ。

「おい。おれのいない間に、何かおもしろいことはあったか──」

 晴明が訊く。

「おもしろくはないかもしれないが、忠見が十日前に死んだ」

「|恋すてふ《ヽヽヽヽ》の壬生忠見《みぶのただみ》か──」

「ああ。痩《や》せ衰えてな」

「やはり何も食わずに?」

「あれでは飢死も同じよ」

 博雅が答えた。

「今年の三月──弥生《やよい》だったか」

「うん」

 ふたりがうなずきあったのは、三月に、内裏の清涼殿で行なわれた、歌合わせのことである。

 歌人を左右に分け、題を決めてよんだ歌を、左右一首ずつ組み合わせて、その優劣を争うのが、歌合わせである。

�恋すてふ�と晴明が言ったのは、そのおりに壬生忠見が造った歌の冒頭の部分である。


  恋すてふ我が名はまだき立ちにけりひと知れずこそ想ひ初《そ》めしか


 これが忠見の歌である。

 そのおり、忠見と争ったのが、|平 兼盛《たいらのかねもり》であった。


  忍ぶれど色に出にけり我が恋はものや想ふとひとの問ふまで


 これが兼盛の歌である。

 ふたつの歌のできを判じかねて、審査をやっていた|藤原 実頼《ふじわらのさねより》が困っていると、見ていた村上天皇が、小さく口の中で歌をつぶやいた。それが�忍ぶれど�の歌であった。

 藤原実頼が、兼盛の勝ちを宣言した途端に、�あなや�と細い声で忠見が叫んで顔色を真っ青にしたというのは、しばらく宮中での語り草となった。

 その日から、忠見に食欲がなくなり、自分の屋敷でずっと床に伏せるようになってしまったのである。

「最後は、己れの舌を噛《か》み切りながら、死んでいったそうな」

 喰おうとしても喰おうとしても、食物が入ってゆかなかったらしい。

「優男《やさおとこ》に見えて、芯《しん》は念の|こわい《ヽヽヽ》男であったのよ──」

 晴明がつぶやいた。

「信じられぬよ。歌で負けて、ものが喰えなくなってしまうとはなあ」

 しみじみと言って、博雅は酒を飲んだ。

 今は、もう手酌《てじやく》である。

 空になった杯に、自分で酒を足しながら、博雅は晴明を見て言った。

「で、出るそうだぞ」

「出る?」

「清涼殿に、忠見の怨霊《おんりよう》がさ」

「ほう」

 晴明の口元がほころんでいる。

「宿直《とのい》の者が、何人か見たそうな。青い顔をした忠見が、|恋すてふ《ヽヽヽヽ》を口にしながら、絹のような雨の中を、夜の清涼殿から紫宸殿の方へそぞろ歩いてゆくのをな──」

「おもしろいな」

「おもしろがるな、晴明。ここ十日ほどのことでな。帝のお耳にでも入れば、怯えて、居を変えると言い出すかもしれん」

 案外真面目な顔で、博雅が言うのを、そうかそうかと晴明はうなずいた。

「で、どうなんだ、博雅──」

 ふいに晴明が言った。

「どう?」

「そろそろ言えよ。おまえ、おれに何か話があるのではなかったのか──」

「わかるか」

「顔にそう書いてある。おまえは良い漢《おとこ》だからな」

 軽いからかいをこめて晴明は言ったのだが、博雅は真顔である。

「実はな、晴明──」

 口調をあらためた。

「五日前の晩に、帝が大事にしておられた、玄象《げんじよう》が盗まれた──」

「ほほう」

 晴明が、杯を手に持ったまま身をのり出した。

 玄象というのは、琵琶の名前である。

 楽器と言えども、名器となると固有の名がつくのだ。

 もとは醍醐天皇の秘蔵品で、唐より伝来した品である。

�紫檀《したん》のひた甲、腹は塩地を三ツ継合せ�

 と、『胡琴教録下』にある。

「誰が、いつ、どうやって盗んだのか見当がつかない」

「それは困ったな」

 晴明は少しも困ってない顔で言った。

 博雅の前では、つい、地が覗いてしまうらしい。

「で、一昨日の晩にな、おれは、その玄象の音を耳にしたのさ」


     三


 この玄象の音を耳にした晩、博雅は、清涼殿で宿直をしていた。

 この時のことは、やはり『今昔物語』に記されている。

�此人《このひと》(博雅)、管絃《くわんげん》の道極《だうきはめ》たる人にて、|此玄 象《このげんじやう》の失《う》せたる事を思ひ歎《なげき》ける程に、|人皆 静《ひとみなしづか》なる後《のち》に、博雅清涼殿にして聞《きき》けるに、南の方に当りて、彼《か》の玄象の弾く音有り�

 眼覚めて、その音に耳を傾けてみれば、確かに聴き覚えのある玄象の音である。

 壬生忠見の怨霊が、歌合わせの件で村上天皇を恨み、玄象を盗み出して、南の朱雀《すざく》門のあたりで弾いているのかと、博雅は思った。

 または空耳かとも思い、耳を澄ませてみれば、琵琶の音は聴こえており、まぎれもなく玄象の音色である。博雅は�管絃の道極めた�人間である。聴き間違えるはずもない。

 怪《あや》しく思った博雅は、人には告げず、舎人《とねり》の童子ひとりを連れて、直衣《のうし》姿に沓《かのくつ》のみをはくと外へ出た。

 衛門府の侍詰所から外に出、南へ向かって歩いた。

 朱雀門へ出た。

 しかし、琵琶の音はまだ先で聴こえている。

 そこで、博雅は、朱雀大路を南へ下った。

 ──朱雀門でなければ、この先の物見|楼《やぐら》のあたりか。

 どうやら忠見の怨霊ではなく、玄象を盗んだ者が、物見楼に登って、琵琶を弾いているらしい。

 しかし、物見楼までゆくと、琵琶の音はやはりまだ南の方から聴こえてくる。清涼殿で耳にした時と同じ大きさである。不思議なことであった。生身の人が弾くものとは思えない。

 舎人の童子は、顔を青くしている。

 そうして南へ南へと進んでゆくうちに、いつか羅城門の前までやってきた。

 日本で最大の門である。九間七尺の大きさがあり、天の闇の中に黒々とした量感がそびえている。

 いつか、周囲には霧のような細かな雨がたちこめている。

 琵琶の音は、上から聴こえている。

 真っ暗である。

 下に立って見れば、童子の手にする灯《あか》りに、羅城門がぼんやり見えているが、もはや二階あたりは闇に溶けて、何も見えない。

 その闇の中で、|嫋 嫋《じようじよう》と琵琶が鳴っている。

「帰りましょう」

 童子が言うが、博雅は実直な男である。

 ここまで来て帰るわけにはゆかない。

 しかし、何というみごとな琵琶の音であったろうか。

 これまで耳にしたことのない曲であったが、その音色が強く博雅の胸を打った。

 嫋《じよう》。

 と、琵琶が鳴る。

 嫋。

 嫋。

 哀《かな》しく美しい音色である。

 痛ましいほどであった。

「さても、世には隠れたる秘曲があるものよ──」

 博雅は思った。

 つい昨年の八月《はづき》に、博雅は、琵琶の秘曲である、流泉《りゆうせん》、啄木《たくぼく》を耳にしている。

 蝉丸《せみまる》という盲目の老法師が弾くのを聴いたのだ。

 三年もの間通い続けて、やっと聴くことができた曲である。

 その頃、逢坂《おうさか》の関に、ひとりの盲目の老法師が、庵《いおり》を造って住んでいた。もとは、式部卿宮の雑色《ぞうしき》だった者である。

 その老法師が蝉丸である。

 琵琶の名人との噂で、今は誰も弾く者がいないと言われる、流泉、啄木の秘曲まで知っているらしい。

 博雅は、自分でもひととおりは琵琶や笛をあやつるものだから、そういう噂を耳にすると、もうこの法師の琵琶を聴きたくて聴きたくてたまらない。

 博雅は逢坂の蝉丸のもとまで人をやって、

�何《な》ど|不思懸 所《おもひかけぬところ》には住むぞ。京に来《きたり》ても住めかし�

 と言った。

「何故、そのように思いもよらぬ所に住むのか。都に来て住んだらどうか」

 そのように伝えたわけだが、蝉丸、答えるかわりに嫋と琵琶を弾き、


  世中《よのなか》はとてもかくてもすごしてむ宮《みや》も藁屋《わらや》もはてしなければ


 と、詠じた。

「この世の中はどのようにも生きてゆけるものですよ。美しい宮殿であろうと、藁屋であろうと、どうせいつかは失われてゆくものではありませんか──」

 まあ、そのような意味のことを、琵琶の楽音にのせて言ったのだった。

 これを耳にして、ますます博雅は感じ入ってしまった。

「まことに趣《おもむき》ある人物であることよ」

 どうしても蝉丸の琵琶を聴きたいと熱烈に思い焦《こが》れた。

 老法師もいつまでも生きてはおらぬだろうし、この自分自身さえも、いつ死ぬかわからぬ身の上である。あの流泉、啄木の秘曲も、老法師が死ねばそのままこの世から失われてしまうのであろう。どうかしてその曲を聴きたいものだ。何がなんでも聴きたい。どうしても聴きたい。

 思い込んでしまった。

 しかし、会いにゆき、その曲を弾いてくれと頼んだのでは、このような方は快く思わず、たとえ弾いてくれたとしてもどれほど心のこもったものになるかどうか。

 できうることなら、自然に、心のままにこの老法師が弾くのを聴きたいものだ。

 この実直な男は、そう思い立った晩から、毎夜、老法師のもとに通いつめた。

 蝉丸の庵の近くにひそみ、夜ごと、今夜は弾くか、今夜は弾くかと心待ちに待った。

 それが三年である。

 まさか、宿直の晩まで出かけはしなかったろうが、半端な情熱ではない。

 このように月が美しい趣のある晩は弾くぞ、このように虫の鳴く晩こそは流泉にふさわしいのではと、そういう晩には胸をときめかせ�今や弾く、今や弾く�と待った。

 そして、三年目の、八月十五日の夜、月は朧《おぼろ》にかすみ、そよそよと風の吹く晩のことだ。

 ついに、嫋嫋と聴こえてきた曲があった。

 その一部のみを、微《かす》かに聴いたことのある、流泉であった。

 たっぷりと聴いた。

 朧の闇の中で、老法師は興《きよう》のおもむくまま、さらに琵琶を弾きながら詠じた。


  逢坂の関の嵐の激しきに強《し》ひてぞ居《ゐ》たる夜をすごすとて


�博雅これを聞きて、涙を流して哀れと思ふ事無限《ことかぎりな》し�

 と『今昔物語』は記している。

 老法師は、やがて、独り言のようにつぶやいた。

「ああ、こよいは何と興のある夜であることよ。この世にわたしの他にも趣を知る人がないものだろうか。今夜、琵琶の道を少しなりとも心得た人が訪ねてきてくれないものだろうか。ひと晩中でも語りあかしたいものだ──」

 それを耳にして、博雅は、思わず前に一歩出ていた。

「そのような人物ならここにおりますよ」

 喜び、どきどきと、顔さえ赤くしながら、しかし節度を持って、この実直な男は姿を現わしたに違いない。

「あなたはどなたですか──」

「お忘れかもしれませんが、いつか、人をやって、あなたを京にお誘いした源博雅という者です」

「おう、あの時の──」

 蝉丸も、博雅のことは覚えている。

「今のは、流泉ですね」

 博雅は言った。

「よくおわかりになりますね」

 蝉丸の驚きと喜びの混じった声を耳にして博雅は、天にも登る気持ちであったろう。

 そして、老法師は、所望されるままに、博雅の前で存分に、秘曲啄木を弾いた──。

 羅城門の上から響いてくる琵琶の音を聴きながら、博雅はその晩のことを思い出した。

 今、耳にしているのは、流泉、啄木にもまさる名曲である。

 不思議な旋律を持った、哀切極まりない曲であった。

 奇妙な感動すら、博雅は覚えていた。

 頭上の闇から、響いてくる琵琶の音に、長い間耳を傾けていた。

 やがて、声をかけた。

「羅城門の上で琵琶を弾くはどなたか。その音色は、一昨夜、宮中より失せた玄象のもの。こよい、清涼殿にてその音を聴き、楽音に魅《ひ》かれてここまで来たが、その琵琶は天皇が大切にしているものだ──」

 そう言った途端に、はたと琵琶の音が止んで、あらゆる気配が消えた。

 童子の持っていた灯《ひ》が、ふっと消えた。


     四


「で、帰ってきたのだ」

 と、博雅は晴明に言った。

 童子は泣き震え、灯はなくさんざんであったらしい。

「それが一昨日の晩か」

「うむ」

「昨夜は?」

「実は昨夜も、琵琶の音が聴こえた」

「行ったのか」

「行ったよ。今度はひとりでな」

「羅城門?」

「うむ。ひとりで行った。ひとしきり琵琶を聴いていたのだが、あれほどの琵琶を弾けるのは、もはや人間ではない。声をかけるとな、また琵琶の音が止んだ。また灯も消えた。しかし、今度は、用意をしておいたので、すぐに灯りを点け、登ったよ──」

「登った? 羅城門にか──」

「そうだ」

 むちゃくちゃな勇気のある男であった。

 半端な暗さではない。真の闇である。

 もし、相手が仮に人間であっても、登って行った所を、上からいきなり斬りつけられれば、たまったものではない。

「しかし、やめた」

 博雅は言った。

「登るのをか」

「そうだ。途中まで登ったところで、声がした」

「声?」

「声だかなんだか、人か獣の哭《な》く声だったな。こわい声であったよ」

 博雅が言った。

「暗い上方を見上げながら、顔を仰のかせて登って行ったのだがな、ふいに、上からおれの顔の上に、何かが落ちてきた──」

「何だ?」

「下へ降りてよく見れば、腐った人の眼だまであった。どこぞの墓場から調達してきたものであろうな」

 それで、もう登る気がしなくなったと博雅は言った。

「無理に登って、玄象を壊されてもつまらぬからな──」

「で、おれに何の用なのだ」

 晴明は訊いた。

 すでに、酒も、鮎もなくなっている。

「今夜、つきあえ」

「またゆくのか」

「ゆく」

「帝は御存知か──」

「いや、まだ、おれひとりの腹にしまってある。童子には堅く口止めをしてある」

「ふん」

「羅城門の上のあれは、人ではないな」

 博雅が言った。

「人でなければ何だ?」

「わからぬ。鬼であろうよ。いずれにしろ、人でなければ晴明の仕事だ」

「そういうことか」

「玄象をとりもどす、それもあるが、どうにもまたあの琵琶を聴きたくてな」

「つきあおう」

「おう」

「そのかわりに、ひとついいか──」

「何だ?」

「酒を持ってゆく」

「酒を?」

「おれも、酒を飲みながら、その琵琶を聴いてみたくなった」

 晴明が言うと、少し黙ったまま、博雅は晴明の顔を見つめ、

「よかろう」

 つぶやいた。

「ゆこう」

「ゆこう」

 そういうことになった。


     五


 その晩、集まったのは、三人であった。

 場所は、紫宸殿の前であった。

 桜の樹の下である。

 晴明は、やや遅れて姿を現わした。

 無造作に、白い狩衣をふわりと身にまとい、左手に、紐《ひも》で結んだ大きな瓶子《へいし》をぶら下げていた。

 右手に灯りを持ってはいるが、灯を点《とも》さずに、ここまで歩いてきたらしい。

 足には、黒い皮の浅沓《あさぐつ》をはいている。

 すでに、桜の樹の下には、博雅が立っている。

 戦《いくさ》にでも出かけるような姿をしていた。

 束帯《そくたい》に身を包み、巻纓《けんえい》のついた|冠 《かぶりもの》を頭に乗せている。左腰に大反りの太刀を帯び、右手に握っているのは弓であった。

 背には矢を負っている。

「やあ」

 と晴明が声をかけると、

「おう」

 と博雅が答えた。

 博雅の横に、ひとりの法師姿の男が立っていた。

 小柄な男であった。

 背に、笹琵琶をひとつ、紐で結んで負っている。

「こちらは、蝉丸どのだ──」

 博雅が、その法師を晴明に紹介した。

 蝉丸が、小さく膝を曲げ、ぺこんと頭を下げた。

「晴明どのか」

「はい。陰陽寮の安倍晴明です」

 晴明の口調は丁寧《ていねい》で、ものごしは静かであった。

「蝉丸法師のことは、博雅からうかがっておりますよ」

 博雅とふたりきりの時よりは、ずっと気品のあるしゃべり方である。

「晴明どののことも、博雅どのから聴いています」

 小柄な法師は頭を下げた。

 首のあたりが細っそりとしていて、鶴の頸《くび》のようである。

「夜中に聴こえる琵琶の音のことを蝉丸どのにお話ししたら、ぜひ自分も聴いてみたいとおっしゃられてな」

 博雅が言った。

 その博雅を、晴明は見やって、

「毎晩、そんな|なり《ヽヽ》で出かけていたのか──」

「いやいや、今夜は他の者がいるからな。自分ひとりであればここまではせぬよ」

 そこまで博雅が言った時、清涼殿のあたりから、低い、男の声が聴こえてきた。

 さびさびとした、暗い声であった。

�恋すてふ……�

 その声が、切なくつぶやいている。

 その声が近づいてきて、夜眼にもほの白い姿が、紫宸殿の西の角をまわって、ぼうっと姿を現わした。

 冷たい夜気の中に、絹よりも細い雨滴が、霧のようにけぶっている。

 その地に落ちず、宙に浮遊している雨滴が凝《こ》ったような人影であった。

�我が名はまだき立ちにけり……�

 橘《たちばな》の樹の下を、そぞろに歩いてくる。

 青白い顔はどこも見てはいない。

 白い文官の衣装を身にまとっている。頭には巾子《こじ》のついた冠《かんむり》をかぶり、飾太刀《かざたち》を下げ、|下 襲《したがさね》の裾《きよ》を、地に引いていた。

「忠見どのか──」

 晴明がつぶやいた。

「晴明」

 博雅が、晴明を見た。

「それだけの理由《わけ》があって出てきておるのさ。放っておこうよ──」

 陰陽の法でどうこうしようという気は、晴明にはない。

�人知れずこそ、想ひ初めしか�

 消えた。

 紫宸殿の前であった。

 陽炎《かげろう》が、大気にゆったりと溶けてゆくように、うたい終えた声と共に消えた。

「哀しい声でございますね」

 蝉丸がつぶやいた。

「あれもまた、鬼なのではあろうよ」

 晴明は言った。

 琵琶の音が聴こえてきたのは、それからほどなくであった。

 ぽん、と晴明が小さく手を打った。

 すると、闇の向こうから、しずしずとひとりの女が姿を現わした。

 みっしりとした唐《から》衣裳《ころも》──つまり十二|単衣《ひとえ》に身を包んだ美しい女であった。

 後方に裳を引きながら、博雅の手に持った灯りの届く中に入ってきた。

 ふうわりとした、藤色一色の唐衣裳であった。

 女は晴明の前で立ち止まった。

 小さく白い瞼《まぶた》を伏せている。

「この蜜虫《みつむし》が、我等を先導いたします」

 晴明が言った。

 女は、その白い手に、晴明から灯りを受け取った。

 ぽっと、灯がともる。

「|みつむし《ヽヽヽヽ》?」

 博雅が言う。

「あの、おまえが、歳経た藤につけた名ではないか──」

 博雅は、今朝、ひと房だけ、晴明の屋敷の庭で咲き残っていた藤の色と、その甘やかな匂いを思い出していた。いや、思い出しただけではない。その匂いは、確かに眼の前の女から、冷たい夜気の中にほどけ、博雅の鼻孔にまで漂ってきているのである。

「識神か」

 博雅が言うと、晴明が小さく微笑した。

「呪よ」

 つぶやいた。

 その顔を博雅が眺めている。

「つくづく不思議な男だなあ」

 博雅が、溜め息と共に言った。

 女に灯りを渡した晴明を見、自分の手の中の灯りに眼をやった。

 蝉丸は灯りを持っていず、灯りを持っているのは博雅のみである。

「灯りが必要なのはおれだけか」

「わたしは盲目でございますから、朝も晩も同じでございます」

 蝉丸が低くつぶやいた。

 藤色の唐衣裳の背を向けて、霧のように宙にけぶる雨の中を、静かに蜜虫が歩き出した。

 嫋《じよう》。

 と、琵琶が鳴る。

「参ろうか──」

 晴明が言った。


     六


 ぼうとけぶる冷たい夜気の中を、晴明は瓶子をぶら下げて歩いてゆく。

 時おり、その瓶子を唇に運んでは、酒を飲む。

 この夜と、琵琶の風情を楽しんでいるらしい。

「博雅も飲むか」

 晴明が言う。

「いらぬ」

 最初は断っていた博雅であったが、

「酔うては矢が当らぬか」

 晴明にからかわれて、酒を飲み始めた。

 それにしても哀切な琵琶の音《ね》であった。

 蝉丸は、さっきから、うっとりと、無言で琵琶の音に耳を傾けながら歩いている。

「初めて耳にする曲ですが、哀切な音でございますね」

 小さく蝉丸がつぶやいた。

「胸をしめつけられるな」

 博雅が、弓を肩にかけて言った。

「異国の旋律であろうよ」

 晴明が、酒を口に運びながら言う。

 樹々が、闇の中でゆったりと熟《う》れて、緑の芳香が夜気に溶けている。

 羅城門の下に着いた。

 はたして、羅城門の上から、嫋嫋と琵琶の音が聴こえてくる。

 三人は、無言のまま、しばらくその琵琶の音に耳を傾けた。

 聴いているうちに、曲が変わるのがわかる。

 そのうちのいくつ目かの時に、蝉丸が小さくつぶやいた。

「この曲ならば、いくらか覚えはございます──」

「なんと!?」

 博雅が蝉丸を見た。

「亡《な》き式部卿宮が、ある時、名も何もわからぬ曲だがとおおせられてお弾きになった曲がございましたが、それがこのような曲であったかと思います」

 蝉丸は、肩から琵琶をはずして、それを手に抱えた。

 嫋《じよう》。

 と、蝉丸が、羅城門から届いてくる音に合わせて、琵琶を弾きはじめた。

 嫋。

 嫋。

 と、ふたつの琵琶の音がからみ始めた。

 蝉丸の琵琶の方が、始めはややたどたどしかった。

 しかし、蝉丸の琵琶の音が届いたのか、羅城門の上から響いてくる琵琶は、同じその曲を繰り返すようになっていた。繰り返される度に、蝉丸の琵琶からたどたどしさが消え、何度目かの時には、ほとんど羅城門の上から届いてくる琵琶の音と同じになった。

 絶妙の音であった。

 ふたつの琵琶の音が調和して、溶けあい、夜気に響く。

 ぞくぞくと鳥肌の立つような音であった。

 蝉丸は、うっとりと盲目の眼を閉じ、身体の内部にたかまってゆくものを追いかけるように、琵琶から音を紡ぎ出してゆく。

 歓喜の表情を浮かべていた。

「おれは幸せものだぞ、晴明──」

 博雅が、うっすらと眼に涙を滲《にじ》ませてつぶやいた。

「人の身が、これほどの琵琶を耳にできようとは──」

 嫋《じよう》。

 嫋。

 と、琵琶の音が、暗い天に昇ってゆく。

 声が聴こえていた。

 低い、獣のような声。

 始めはひそひそと小さくその声は琵琶の音に混じり、ゆっくり大きくなっていった。

 羅城門の上から聴こえていた。

 羅城門の上に居る|もの《ヽヽ》が、琵琶を弾きながら哭《な》いているのである。

 いつか、ふたつの琵琶の音はやんで、ごうごうごうと哭くその声だけになった。

 まだ、大気の中に残っている琵琶の余韻を追うように、至福の表情を浮かべて、蝉丸は盲目の眼を天に向けていた。

 哭き声の中に、声が混じり始めた。

 異国《とつくに》の言葉であった。

「唐の言葉ではないな」

 晴明が言った。

 しばらく、その声に耳を傾けていた晴明が、

「天竺《てんじく》の言葉だ……」

 ぽつりと言った。

 天竺──つまりインドのことである。

「わかるのか、おまえ」

 博雅が問うた。

「少しならね」

 坊主に知り合いが多くてな、と晴明がつけ加えた。

「何と言っている」

 博雅の言葉に、また少し晴明はその声に耳を傾け、

「哀しい、と言っている。また、嬉しい、とも言っている。それと、あと誰か女の名を呼んでいるようだ──」

 天竺の言葉──すなわち古代インド語であるサンスクリット語、梵語《ぼんご》のことである。

 仏教の経典はもとはこの言葉で書かれており、中国で生まれた仏典には、漢字をそのまま音訳としてあてたものが多い。

 平安時代にも、梵語を話す人間は何人かおり、実際に、天竺の人間が平安時代の日本にもいた。

「女の名だと?」

「|すりあ《ヽヽヽ》と言っている」

「|すりあ《ヽヽヽ》?」

「|すーりや《ヽヽヽヽ》か、|すりーあ《ヽヽヽヽ》かもしれぬ」

 晴明は涼しい顔で羅城門を見あげた。

 灯が届いているのはわずかばかりで、少し上は、もう闇に塞《ふさ》がれている。

 その暗い門の二階に、晴明は低く声をかけた。異国の言葉であった。

 途端に、哭く声がやんだ。

「何と言ったのだ?」

「良い琵琶の音であったと、そう言ったのさ──」

 やがて、頭上から低く声が届いてきた。

「私の国の音楽を弾き、私の国の言葉を話すあなたがたは何者ですか」

 やや訛《なま》りがあるが、まぎれもない日本語であった。

「我々は、この都の宮廷に仕えているものだ」

 博雅が言った。

「名前は?」

 声が訊いた。

「源博雅──」

 博雅が言った。

「源博雅、ふた晩続けてここへ来た方ですね」

 声が言った。

「ああ」

 博雅が答えた。

「蝉丸じゃ」

 蝉丸が言った。

「蝉丸──あなたが今の琵琶を弾いていたのですか」

 声が訊くと、蝉丸が、答えるかわりに、嫋、と琵琶を鳴らした。

「正成《まさなり》だ」

 晴明が言うと、博雅がいぶかしげな顔で晴明を見た。

 ──何故、違う名を言うのか。

 そういう顔であった。

 晴明は、すました顔で、羅城門を見あげている。

「もうひとりは──」

 声が言いかけて言葉を切った。

「──人ではないようですね」

 つぶやいた。

「いかにも」

 晴明が言った。

「精霊ですか」

 声がつぶやいた。

 晴明がうなずいた。

 どうやら、上からは下が見えているらしい。

「そちらは、名はあるのか?」

 晴明が問うた。

「漢多太《カンダタ》──」

 と、小さく声が答えた。

「異国《とつくに》の名か」

「そうです。あなた方が天竺と呼んでいる所で、私は生まれたのです」

「すでにこの世のものではあるまい」

「はい」

 漢多太が答えた。

「どういう身分のものだ」

「私は旅の楽師です。もとは小さな国の|王 《ラージヤン》の妾《めかけ》の子として生まれたのですが、隣国との戦さに破れ、国を後にしたのです。幼い頃より、武芸よりも音楽の方に興味があり、十歳の頃には、ひと通りの楽器はこなせるようになっていました。一番得意であったのは、五弦の月琴《げつきん》を弾くことでありました──」

 声に、なつかしそうな響きがこもっていた。

「その月琴のみを抱え、流れ流れて唐までたどりつき、そこで一番長い歳月を過ごしました。私がこの国に来たのは、もう百五十年以上も昔のことです。空海|和尚《おしよう》の船に乗って、この国に入りました──」

「ほほう」

「私が死んだのは、百二十八年前のことです。平城京の法華寺に近い場所で、琵琶などの楽器を造っていたのですが、ある晩盗人に入られ、そのおり、私はその賊に首を切り落とされ、死んだのでございます」

「それがどうしてこのようなことになったのか──」

「我が故郷を、死ぬまでにもう一度、この眼で見たいと思っていました。国を追われ、このような異国の地にはてることになった自分が哀れで、その想いが私を成仏させなかったのでしょう」

「なるほど──」

 晴明はうなずいて、

「しかし、漢多太《ヽヽヽ》よ」

 声をかけた。

「はい」

 声が答えた。

「何故に、その玄象《げんじよう》なる琵琶を盗んだのか──」

「実は、この玄象は、この私が唐におります時に、造ったものでございます」

 静かな、低い声であった。

 晴明は、大きく溜め息をついた。

「そうであったかよ──」

「不思議な縁《えにし》でございます、正成《ヽヽ》どの──」

 声が言った。

 先ほど、晴明が言った偽りの名を呼んだ。

 しかし、晴明は答えない。

「正成どの──」

 声がまた言った。

 博雅が晴明を見た。

 晴明は、紅い唇に微笑を含んで、暗い門上を見あげている。

 ふと、博雅に思いあたることがあった。

「その玄象、昔はそちらのものであったかもしれぬが、今はこちらのもの。どうか返してはもらえぬか──」

 博雅が、上を睨んで言った。

「返すのはかまいませぬが──」

 小さく声が言った。

 少しの沈黙があって、

「かわりにお願い申しあげたいことがございます」

「なんだ」

「恥ずかしきことながら、忍び込んだ宮中にて、ひとりの女官に心を移しました」

「なんと」

「私は、十六歳で妻をめとったのですが、その妻にそっくりの女官が宮中におります」

「───」

「もとはと言えば、その女官見たさに、夜な夜な宮中に忍び入り、そのおりに、この玄象を見つけたのでございますよ──」

「───」

「女官を力ずくにて我がものにはできましょうが、私にはそれはできません。それでかわりにこの玄象を奪い、昔を偲《しの》び、我が妻、スーリヤを偲んでは、琵琶を弾いては心をなぐさめていたのでございます」

「で──」

「その女に言いふくめて、私のもとに寄こして下さい。たったひと晩だけでよいのでございます。ひと夜の契《ちぎ》りをかわさせて下さい。さすれば、その女官を朝には帰し、私はすみやかにこの場所より立ち去ります──」

 そう言い終えて、ひとしきり、声の主はさめざめと泣いているようであった。

「わかった」

 答えたのは博雅であった。

「帰って、帝にこのことを御報告申しあげ、その願いが聴き届けられるものなら、明日の晩の同じ刻限に、この場所へ女をつれて来ようではないか──」

「ありがとうございます」

「で、女の特徴は?」

「色の白い、額に黒子《ほくろ》のある、玉草《たまくさ》という名の女官でございます」

「その願い、かなうようであれば、明日の昼に、この矢をそこに射ち込んでおこう。かなわぬ場合には、黒く塗った矢を射ち込んでおこうか──」

「よろしくお願い申しあげます」

 声が答えた。

「なあ、おい──」

 ふいに、門の上に声をかけたのは、さっきまで黙っていた晴明であった。

「さっきの琵琶を、もう一度聴かせてはくれないかね」

「琵琶を──」

「うむ」

「それは願ってもないこと。本来ならば下に下りてお弾き申しあげるところでございますが、あさましき姿となり果てております故、楼上にてお弾き申しあげます」

 声が言った。

 嫋。

 と、琵琶が鳴った。

 韻《いん》いんと、音が消えずに、大気の中に蜘蛛《くも》の糸のように残る。

 さきほどのものにも増して、みごとな楽の音であった。

 それまで、凝《じ》っと立っていた蜜虫が、すっとしゃがんで灯りを下に置いた。

 そのまま立ちあがる。

 すうっと夜気の中に、蜜虫の白い手が持ちあがり、それが、宙でくるりとひるがえった。

 琵琶に合わせて舞い始めた。

「おう……」

 博雅が、溜め息と共に、うっとりとした声をあげた。

 舞いと琵琶が終った。

 ──と。

 上から声がかかった。

「良い舞いでございました。今晩のところはこれでお引き取り願うとして、もしやと思いますので、私の力をお見せしておきましょう」

「もしや?」

「明日、あなた方が、おかしな真似をせぬようにでございます」

 声が言い終えぬうちに、羅城門の二階からみどり色の光が、ふわりと蜜虫の上に落ちてきた。

 その光に包まれた瞬間、蜜虫は苦悶の表情を浮かべ、赤い唇を開いた。白い歯が覗いたかと見えた時、光も蜜虫の姿も消えていた。

 地に置かれた灯りの中に、ひらりと何かが舞って、それがぽとりと地に落ちた。

 晴明が、歩み寄ってそれを拾いあげてみれば、藤の花であった。

「くれぐれもよろしくお願い申しあげます」

 頭上から声がそそいできて、それきりになった。

 後はしんとした夜の闇の中を、絹のような霧が動くばかり──。

 晴明は、右手の白い指につまんだその藤の花を、紅い唇に押しあてていた。

 その唇に、静かな微笑が浮いていた。


     七


 翌日の晩であった。

 羅城門の下に、四人の人間が立っていた。

 細い針のような雨が、柔らかく暗い天から落ちてくる。

 晴明、博雅、そしてひとりの男と、ひとりの女が、その雨の中に立っている。

 男は、鹿島貴次《かしまのたかつぐ》という、武士である。

 腰に太刀を帯び、左手に弓、右手に数本の矢を握っている。二年ほど前に、宮中に現われた猫の妖物を、その弓と矢で射殺している剛のものであった。

 女は、玉草であった。

 瞳《ひとみ》大きく、鼻筋が高く通っている、美しい女であった。歳の頃なら、十八、九である。

 晴明は、酒を持っていないだけで、昨晩と同じ|なり《ヽヽ》であった。

 博雅も、弓と矢を持っていないだけで、昨晩と同じ姿であった。

 四人の頭上で、琵琶が鳴っている。

 四人は黙ってその琵琶に耳を傾けているのだった。

 やがて、琵琶がやんだ。

「待ちかねましたよ」

 頭上から声が降ってきた。

 昨日と同じ声であったが、隠しきれない嬉々とした響きが、その声の中にはあった。

「約束通りだ」

 博雅が言った。

「男がひとり、入れかわっていますね」

「蝉丸は残った。こちらが約束通りにしても、そちらが約束通りにするかどうかはわからんのでな。別の者に来てもらったのだ──」

「そうですか──」

「では、女を渡すから、琵琶をもらおうか」

「女が先です」

 声が言った。

 上から、するすると、一本の紐が降りてきた。

「それに女をつかまらせなさい。上に引きあげて、間違いのないのがわかれば、ひとまず琵琶をおろしましょう」

 声が言った。

「よし」

 博雅が女と共に前に出た。

 紐を女につかませた。

 女が掴《つか》まった途端に、するすると紐が上に昇り、同時に女も羅城門の上に登って行った。

 女の姿が見えなくなった。

 ほどなく、

「おう──」

 という声があがった。

「スーリヤよ!」

 歓喜の震えを帯びた声であった。

「確かにかの女だ」

 ほどなく、するすると、上から紐に結ばれて黒いものが降りてきた。

 博雅が、その紐をほどく。

「玄象だ」

 その紫檀の甲を持つ琵琶を持って、博雅がふたりの所までもどってくると、玄象を晴明に見せた。

 その時であった。

 羅城門の上から、不気味な声があがった。

 押し殺した、苦痛に満ちた獣の吠える声であった。

「だましたなあ」

 獣の声が言った。

 何やらもみあう音が、わずかに聴こえた。

 続いて、ぞっとするような女の悲鳴があがった。

 すぐに女の悲鳴がとぎれた。

 湿った音が地を打った。

 小さな桶《おけ》から、水をこぼすような音であった。

 地面にそれが滴り落ちている。温かい生臭い匂いが、夜気に広がった。

 血臭であった。

「玉草《たまくさ》っ!」

 晴明、博雅、貴次《たかつぐ》は、同時に叫んで、門の下に走り寄った。

 そこに黒い染みが見える。

 灯りをかざしてみれば、はたして、それは赤い血であった。

 こり、こり、

 くちゃ、くちゃ、

 という、体毛のそそけ立つような音が、頭上から届いてきた。

 どん、と重い音が響いて、何かが下に落ちた。

 まだ手首の残った、血まみれの白い女の二の腕であった。

「しまった」

 貴次が叫んだ。

「どうしたのだ」

 博雅が貴次の肩をつかんだ。

「玉草がしくじったのだ」

「なに!?」

「叡山《えいざん》の坊主に霊気を込めさせた小刀で、妖物の首をとらせようとしたのだが、それを失敗したらしい」

 言いながら、貴次は弓に矢をつがえた。

「玉草はわが妹よ。これは我等の一存でやったこと。貴次の妹が、承知で妖物に犯されたとあっては後の世までの恥──」

「なんと」

 博雅が言った時、ゆらりとみどり色の光が、羅城門から、暗い中空に浮きあがった。

 貴次が、弓をひきしぼり、その光の中心目がけて矢を放った。

 ぎゃん、という犬に似た声があがって、光が下に落ちた。

 そこに、全裸の異相の男が立っていた。

 色あさ黒く、鼻が高い。

 ひょろりと痩せた胸には|あばら《ヽヽヽ》が浮いている。

 ぎらぎらと光るふたつの眼が、三人を睨んでいた。唇の両端が切れて、牙《きば》がのぞいていた。その口に、女の手首を咥《くわ》えていた。

 自分の血と女の血とで、口の周囲が真っ赤であった。

 身体の腰から下に獣毛がはえ、獣の脚をしていた。

 その獣毛の中から、男根が天を向いていた。

 額から、角のように、深々と潜り込んだ矢を生やしていた。

 まさしく鬼であった。

 血の涙を、その鬼は流していた。

 ごくりと、鬼が、咥えていた手首を飲み込んだ。

 憎悪に満ちた、哀しい眼で三人を見ていた。

 貴次がまた矢を射た。

 その矢がまた鬼の額に潜り込んだ。

「いかん!」

 晴明が叫んだ時、鬼が疾《はし》った。

 次の矢を放とうとしている貴次に跳びかかり、牙で喉《のど》の肉を喰いちぎっていた。

 仰向けに貴次は倒れ、矢が暗い天に向かって疾った。

 鬼が、哀しそうな眼で、ふたりを見た。

 博雅が、腰の太刀を抜き放った。

「動くな、博雅」

 鬼が言った。

「動くな、正成」

 晴明に向かっても言った。

 博雅は、太刀を抜いたままの姿勢で、動けなくなった。

「哀しいのう」

 さびた声で、鬼がつぶやいた。

 ひゅう、と、おどろのみどり色の炎が、鬼の唇から滑り出た。

「哀しや、哀しや……」

 つぶやくたびに、鬼の口から、めらめらとみどりの炎が闇の中に躍り出る。

 博雅の額からは汗がこぼれ出ていた。

 右手に太刀、左手に玄象を抱えたまま、動こうとしても動けないらしい。

「ぬしらの肉を啖《くろ》うて、玄象と共に去《いぬ》るわ……」

 鬼が言った時、

「肉はやれぬな」

 晴明が言った。

 涼しい微笑を浮かべた。

 晴明は無造作に足を踏み出して、博雅の手から太刀をむしりとった。

「だましたな、正成」

 鬼が言った。

 晴明は笑っただけで答えない。

 たとえ、いつわりの名で呼ばれようと、呼ばれて答えればそこに呪《しゆ》がかかってしまうからだ。

 昨夜、博雅は本当の自分の名を教え、しかも名を呼ばれて答えたために、呪を受けたのだ。

 晴明が言ったのは、嘘《うそ》の名である。

 ぞわりと鬼の髪が立ちあがった。

「動くな、漢多太《カンダタ》」

 晴明が言った。

 髪の毛を立ちあがらせたまま、鬼──漢多太の動きが止まった。

 晴明は、無造作に、漢多太の腹に太刀の先を潜り込ませて、えぐった。

 おびただしい血があふれた。

 晴明は、漢多太の腹の中から、血肉にまみれたものを取り出した。

 生きた、犬の首であった。

 犬が、がちがちと牙を噛み鳴らして、晴明に噛みつこうとした。

「やはり、犬であったか」

 晴明がつぶやいた。

「これが、鬼の本体さ。どこぞで見つけた、死にかけた犬にでも、漢多太の�鬼《き》�が憑《つ》いたのだろうよ」

 言い終らぬうちに、動かない漢多太の肉体が変化し始めた。

 顔のかたちがかわり、毛が生えてゆく。

 顔と見えていたものは、犬の尻であった。

 その尻にふたつの矢が刺さっていた。

 ふっと、博雅の身体が自由になった。

「晴明!」

 高い声をあげた。

 その声が震えていた。

 歪《いび》つなひからびた犬の身体が、さっきまで漢多太の立っていた土の上に転がっていた。

 晴明の手の中の血まみれの犬の首だけが、動いていた。

「玄象を──」

 晴明が言うと、博雅が、琵琶を抱えてやってきた。

「生き物ではないこの琵琶に、今度は憑くがよい」

 晴明は、右手で犬の首を抱え、左手をその首の前へ差し出した。

 かっ、

 と牙を鳴らして、犬の首がその手に噛みついた。

 その瞬間に、右手を放し、右手で犬の両眼を塞いだ。

 しかし、ぎりぎりと晴明の左手を噛んでいる犬の首は下に落ちなかった。

「玄象を地に置いてくれ」

 晴明が言った。

 博雅が玄象を地に置いた。

 しゃがんで、晴明が、自分の左手を咥えている犬の首を玄象の上に置いた。

 犬に噛まれた晴明の左手からは血がこぼれ出している。

 晴明は、しみじみと、上から犬の首を見やった。

「なあ、おい──」

 優しい声で、晴明は犬の首に言った。

「あの琵琶の音はよかったなあ──」

 つぶやいた。

 犬の眼を塞いでいた右手を、ゆっくりと放した。

 犬の眼が閉じられていた。

 晴明は、犬の牙から、左手を引き抜いた。

 血が出ていた。

「晴明──」

 博雅が言った。

「漢多太は玄象に憑いたよ」

「呪をかけたのか──」

「うん」

 晴明がつぶやいた。

「あの言葉でか──」

「知らんのか、博雅、優しい言葉ほどよく効く呪はないぞ。相手が女ならば、もっと効きめがあろうな──」

 微かな笑みをその唇に浮かべ、晴明が言った。

 その顔を、しげしげと博雅が見る。

「不思議な男だな、おまえ──」

 博雅が言った。

 玄象の上の犬の首は、いつの間にか白骨に変わっていた。

 古い、黄色く変色した、犬の頭蓋骨《ずがいこつ》であった。


[#ここから3字下げ]

 此《この》玄象は生きたる者の様にぞ有る。弊《つたな》く弾《ひき》て不弾負《ひきおほせざ》れば、腹立ちて鳴らぬなり、亦塵居《またちりゐ》て不《のご》わざる時にも、腹立ちて鳴らぬなり。其気色現《そのけしきあらは》にぞ見ゆるなり。或る時には内裏に焼亡有《ぜうまうあ》るにも、人不取出《ひととりいでず》と云《い》へども、玄象|自然《おのづか》ら出でて庭に有り。

此奇異《これきい》の事供也《ことどもなり》、となむ語り伝へたるとや。

[#ここで字下げ終わり]

[#地付き]『今昔物語』巻第二十四「|玄 象 琵琶為 鬼被取 語第二十四《げんじやうといふびはおにのためにとらるることだいにじふし》」

[#改ページ]


   梔《くち》 子《なし》 の 女《ひと》



     一


 土御門大路《つちみかどおおじ》にある安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷を、|源 《みなもとの》博雅《ひろまさ》が訪ねたのは、皐月《さつき》も半ばに入ってからである。

 太陰暦の五月──現代で言うなら六月の中頃であった。

 |源 《みなもとの》|博雅 《ひろまさの》朝臣《あそん》──武士である。

 いつもと同じように、門は開けっ放しであった。

 草が伸び放題の庭が、門の前に立てばよく見えた。屋敷というよりは、そこらの野山のくさむらを、そのまま塀で囲っただけのようである。

 その屋敷を囲っているのは、飾り彫りのある唐様《からよう》の塀で、上に、唐破風《からはふ》の瓦屋根が乗っている。

 博雅は、その塀と中とをつくづく眺め、溜め息をついた。

 午後の陽差《ひざ》しが、斜めにその庭に差している。

 その中で、勢いを増しつつある夏草が風に揺れていた。

 その草の間に、道がある。

 わざわざ造ったというよりは、人が歩いて、自然にできた道だ。けもの道のようなものだ。その道の上にも、草がかぶさっている。

 夜か早朝に出入りをすれば、袴《はかま》が草についた夜露を吸って、たちまちしっとりと重くなってしまうだろう。

 しかし、今は、陽差しの中で草は乾《かわ》いている。

 博雅は、声もかけずに門をくぐっていた。

 水干《すいかん》を着ている。

 小袴《こばかま》の裾に、さらさらと草の葉先が触れてゆく。

 腰に差した朱鞘《しゆざや》の太刀《たち》の先が、草の中をゆく獣の尾のように、後方に反りあがっている。

 いつもの年であれば、もう、梅雨に入っている頃であったが、まだその気配はない。

 草の匂いに混じって、甘みのある花の匂いが、博雅の鼻をついた。

 梔子《くちなし》の花の匂いだ。

 すでに、この屋敷のどこかで、梔子が花を咲かせているらしい。

 屋敷の入口で、博雅は立ち止まった。

「あいかわらず不用心な──」

 戸が、左右に開け放たれているのである。

「いるか、晴明──」

 博雅は声をかけた。

 返事はない。

 ひと呼吸間を置いて、

「あがるぞ」

 土間へ入って行った。

「沓靴《くつ》は脱げよ、博雅」

 博雅の足元から、ふいに声がした。

 博雅が足元に眼を落とすと、そこの土の上に、小さな一匹の|萱 鼠《かやねずみ》が後肢《あとあし》で立ち、博雅を黒い眼で見あげていた。

 博雅と視線が合った途端に、萱鼠は小さく鳴きあげて、たちまち疾《はし》り去った。

 鹿皮の沓靴を脱ぎ、博雅はあがり込んだ。

「裏か」

 廊下づたいに屋敷の裏手へまわり込んでゆくと、そこの廊下で白い狩衣《かりぎぬ》姿の晴明が、右の片《かた》肘《ひじ》を枕に横になっていた。

 庭を眺めているのだ。

 晴明の前に、瓶子《へいし》と杯が置いてある。

 杯はふたつ、あった。

 素焼きの皿がその横にあり、鰯《いわし》の丸干しがその上に乗っている。

「何をしているのだ」

 博雅が声をかけると、

「待ちかねたぞ、博雅──」

 寝ころがったまま、晴明が言った。

 どうやら、晴明は、博雅の来るのをわかっていたらしい。

「どうして、おれの来るのがわかったのだ」

「来る時に、一条|戻橋《もどりばし》を渡ったろう?」

「ああ通った」

「その時、おるかな晴明とつぶやいたではないか」

「そんな気もするが、どうしてそんなことを知っている?」

 晴明は答えずに、ふふんと小さく笑って、上体を起こした。

 胡座《あぐら》をかいた。

「そう言えばおまえ、あの戻橋の下に式神《しきがみ》を飼っているという噂だが、その式神が、おまえに教えたか」

「そういうことにして、まあ座れよ。博雅」

 晴明が言った。

 晴明は、長身で色白である。

 眼元は涼しく、秀麗な顔をしている。

 薄く紅を含んだような唇が、微笑を浮かべている。

 年齢の見当がつかない。

 四十歳を過ぎていてもおかしくないはずなのに、まだ三十歳にもならない青年のようにも見える。

「今、そこで萱鼠に声をかけられたよ。晴明、おまえの声をしていたぞ」

 晴明の横に胡座をかきながら、博雅が言った。

 晴明は、手を伸ばし、鰯の丸干しをつまんで、それをちぎり、庭先へ放った。

 ちい

 と、声がして、そこの土の上に立っていた萱鼠が、晴明の投げた鰯の身を、器用に口で受けとめた。鰯を咥《くわ》えたまま、萱鼠は草の中に姿を消した。

「今、その鼠に礼をやったところだ」

 晴明は言った。

「おまえのところは、何がどうなっているのだか、さっぱりわからん」

 博雅は、実直そうに、背を伸ばしたまま言った。

 風の中に、さっきの甘い匂いが漂っている。

 博雅が庭に眼をやると、奥の方に、梔子《くちなし》が点々と白い花を点《つ》けていた。

「いや、くちなしの花がよく匂っているな」

 博雅が言うと、晴明が微笑した。

「めずらしいな」

「めずらしい? 何がだ」

「博雅が、訪ねてくるなり、酒も飲まぬに花のことを口にするとは思わなかった」

「おれにも、風雅を解するこころもちはあるぞ」

「わかってるよ。おまえはよい漢《おとこ》だ」

 晴明は、瓶子をつまんで、ふたつの杯に酒をそそいだ。

「今日は酒を飲みに来たのではないぞ」

「しかし、酒をこばみに来たわけでもないのだろう?」

「おまえは口がうまいな」

「この酒はもっとうまい」

 晴明は、もう、杯を手にとっている。

 博雅は、背筋を伸ばしたまま、杯を手にとった。

「では」

「うむ」

 声をかけあって、ふたりは杯の酒を飲み干した。

 空になったふたつの杯に、こんどは、博雅が酒をそそいだ。

「忠見どのは元気か」

 二杯目の酒を口に運びながら、晴明が言った。

「うむ。時おり、宿直《とのい》の晩に見かけるよ」

 博雅が答えた。

 忠見というのは、壬生忠見《みぶのただみ》のことである。

 昨年の三月に、内裏の清涼殿で行なわれた歌合わせで詠《よ》んだ歌が、|平 兼盛《たいらのかねもり》の詠んだ歌に敗れ、食わずの病になって死んだ男である。


  恋すてふ我が名はまだき立ちにけりひと知れずこそ想ひ初めしか


 そう詠んだ忠見の歌が、兼盛の、


  忍ぶれど色に出にけり我が恋はものや想ふとひとの問ふまで


 そう詠んだ歌に負けたのだった。

 食わずの病の原因はその敗北が原因であったというのが、宮中での噂である。

 その忠見の怨霊《おんりよう》が、宮中に時おり出る。

 自分の詠んだ�恋すてふ�の歌を哀しい声で詠じながら、宮中の闇をそぞろ歩き、そして消える。

 それだけの害の無い霊である。

「なあ、博雅よ」

「なんだ」

「こんど、酒を持って、ふたりで忠見どのの歌を聴きにゆこうか」

「とんでもないことを言うな」

 博雅はあきれ顔で晴明を見た。

「いいではないか」

 言いながら、晴明は酒を口に運ぶ。

「おれはな、最近、とみにはかない気持になっているのだ。何やらの霊の話ばかり、おれの耳に入ってくる」

「ほう」

 晴明は、肴《さかな》の鰯を噛みながら、博雅の顔を見た。

「|小野宮 右大臣《おののみやのうだいじん》の実次《さねつぐ》が|あれ《ヽヽ》を見た話は耳にしているか」

「いや、まだだ」

「七日ほど前であったか。この実次が、参内しての帰り、大宮大路を南に下っていた時のことだ。乗っていた車の前に、小さな油瓶《あぶらがめ》を見た」

「ふむ」

「その油瓶が、まるで生きているもののように、車の前を跳ねてゆくのだそうだ。なんとも怪《あや》しの油瓶よと思って実次が見ていると、その油瓶は、ある屋敷の門の前で止まったというのさ」

「それで?」

「しかし、戸が閉まっていて、中に入れない。そのうちに、鍵穴《かぎあな》に向かって、この油瓶が飛びつきはじめてな、何度目かについに飛びついて、その鍵穴からすっと中へ入ってしまった……」

「おもしろいな」

 晴明がつぶやいた。

「家に帰ってからも、実次は、そのことが気になってしかたがない。で、人に命じて、その屋敷まで様子を見にやらせた──」

「なるほど。それで、その屋敷で、誰ぞ死人でも出たか?」

「よくわかるな、晴明。見に行ったものが帰ってきて実次に言うには、その屋敷には若い娘がいて、長い間、ずっと病で寝たままだったそうだ。それが、その日の昼に、ついに亡くなったということだよ」

「さもあろうよ」

「このような物の怪《け》もあるのだなあ」

「それはあるだろうさ」

「なあ、晴明。人や動物でない、|もの《ヽヽ》でも、あやかしをするのか」

「あたりまえではないか」

 晴明が、あっさりと言う。

「生命《いのち》のないものがだぞ?」

「生命がなくとも、ものには霊が宿る」

「まさか」

「まさかではないぞ。霊はどのようなものにも宿る」

「油瓶にもか」

「そうだ」

「信じられぬな」

「油瓶だけではないぞ。そこらに転がっている石にだって、霊はある」

「どうしてなのだ。人や獣に霊があるというのはわかる。しかし、どうして、油瓶や石に霊が宿るのだ」

「ほほう、では、人や獣に霊があるのは不思議ではないのか?」

「あたりまえではないか」

「では、訊くがよ、どうして人や獣に霊があって不思議ではないのだ」

「それは──」

 言いかけて、博雅が口をつぐんだ。

「どうしてもだ。人や獣に霊があるのはあたりまえだ」

「だから何故なんだ」

「だから──」

 言いかけて、また博雅は口をつぐむ。

「わからないよ、晴明。わかっているつもりだったのに、考えたら急にわからなくなった」

 博雅の言い方は率直である。

「いいか、博雅、人や獣に霊があって不思議でないなら、油瓶や石にも霊があって不思議ではない」

「うむ」

「油瓶や石に霊があるのが不思議なら、人や獣に霊があるのも不思議なのだ」

「うむ」

「なあ、博雅、そもそも霊とは、何なのであろうかな」

「おれに難しいことを訊くなよ、晴明」

「霊もまた、呪《しゆ》と同じものよ」

「また呪か」

「霊と呪とを違うものとして見ることはむろんできるが、同じものとして、見ることもむろんできる。ようは見方だ」

「ははあ」

 理解のおよばぬ顔で、博雅はうなずく。

「たとえばここに、石があるとするな」

「うむ」

「つまり、それは、生まれつき宿命として、石《ヽ》という呪をその身《うち》に持っているものだ」

「うむ」

「で、このおれがさ、その石を握って誰かを殴り殺したとしよう」

「うむ」

「さて、その石は、石であろうか、武器であろうかな」

「ううむ」

 低く唸《うな》ってから、

「それは、石でもあり、武器でもあるということであろうが」

 博雅が言った。

「そうよ、博雅、よくわかったな」

「わかるさ」

 博雅は、武骨な面《おも》もちでうなずいた。

「霊と呪とが同じというのはそれほどの意味さ」

「ふうん」

「おれが、石というものに、武器という呪をかけたことになる」

「そういえば、おまえ、いつであったか、名とは、一番簡単な呪であるという話をしたことがあったな」

「呪にも色々な呪があってな。名も、石を武器として使うのも、呪をかけるということでは同じだ。呪の一番基本的なものさ。誰にでもできる──」

「うむ」

「でよ。昔から、形が似れば霊が宿るというが、それは本当のことだぞ」

「───」

「形もまた、呪の一種だ」

「ううむ」

 博雅はまたわからなくなっている。

「たとえばここに、人の形に似た石があるとするな」

「うむ」

「それはつまり、人という呪をかけられた石だ。似れば似るほど強い呪がかけられていることになる。石の霊が、人の霊性をわずかながら帯びることになる。それだけならどうというほどのものではないが、それが人の形に似ているからと、皆がその石を拝むことになれば、その石に、さらに強い呪をかけてしまうことになる。帯びる霊性も強くなる」

「ははあ」

「時として|あやかし《ヽヽヽヽ》をしたりする石は、そのような、人に何年も何十年も拝まれた石だな」

「そういうものか」

「だからさ。もとはただの土であったものをこね、焼いて壺《つぼ》にするというのは、壺という呪を、こねたり、火を加えたり、てまひまかけてその土にかけるということなのだ。そういう壺のひとつが、鬼《き》と変じて災《わざわい》をなすというのも、あながちわからぬ話でもあるまい──」

「実次の油瓶の件も、そういうもののひとつだというのか」

「それは、あるいは、実体を持たない鬼が、油瓶のかたちをとっていたものであるのかもしれぬな」

「しかし、どうして、鬼が油瓶の姿などになるのだ」

「そこまでわかるものか、おれが見たわけではないのだからな」

「安心したよ」

「何故だ」

「おまえは何でもわかるんだと思ってたからさ。あんまりなんでもわかられては、くやしいではないか──」

「ふふん」

 晴明は、微笑して、口にまた鰯を放り込んだ。

 酒を飲んで、晴明は、博雅を見た。

 感慨《かんがい》深い溜め息をついた。

「何だ」

 博雅が訊く。

「つくづく不思議に思うているのさ」

「何をだ?」

「たとえば、そこにおまえがいるということとか、石がそこに転がっているということとかをだ」

「またかよ、晴明──」

「在る、ということは、一番不思議だぞ──」

「おまえの呪の方がよっぽど不思議だよ」

「はは」

「おい、晴明。話をややこしくするなよ」

「してるか、おれが」

「おまえは話をこむずかしくするのがうまい。石は石、おれはおれでいいではないか。そんなことを考えて、よく酒が飲めるな」

「いや、博雅よ。おれは、酒を飲みながらこういう話をおまえにするのが楽しいのだ──」

「おれは楽しくない」

「それはすまん」

 晴明に少しもすまながっている様子はない。

「ちぇ」

 酒を飲み干した博雅に酒をついでやりながら、晴明は博雅を見た。

「さて、博雅、今日はどのような用事があって来たのだ」

 低く言った。

「おう、それよ。実は、おまえに助けてもらいたいことがあってな」

「ほう」

「|陰陽 博士《おんみようはかせ》のおまえでなければならぬ頼みごとさ」

 博雅は言った。

 陰陽博士──大内裏にある役所の陰陽寮に属し、天文、暦数、卜筮《ぼくぜい》をつかさどる陰陽師《おんみようじ》が、この名で呼ばれる。

 方位も観《み》れば、占いもやり、幻術、方術の類《たぐい》まであつかうが、そういう陰陽師の中でも、晴明は一風変わっている。

 陰陽道の秘事をなす時でも、必ずしも古来の法をとらないのである。秘事におけるところのわずらわしい飾りの部分を、あっさり捨てて、我流のやり方をする。

 かといって、公《おおやけ》の場では、それなりに秘事をそつなくこなしたりもできるのである。

 都のはずれで身体を売っている女のことなど、ひどく下世話なことにも通じていれば、思いがけなく、何かの集まりのおり、漢詩などをさらさらと書いて、公達《きんだち》をうならせたりもする。

 雲のように捕えどころがない。

 そういう晴明と、実直さの塊りのような博雅とが、不思議と妙にうまが合って、互いに酒をくみかわすような仲が続いているのである。

「どんな頼みだ」

 晴明にそう問われて、博雅は話し始めたのであった。


     二


「おれの知り合いの武士にな、|梶原 資之《かじわらのすけゆき》というのがいる」

 たっぷりと酒を口に含んでから、博雅は唇を開いた。

「うむ」

 晴明は、ちびちびと酒を唇に運びながら、耳を傾けている。

「この資之、たしか今年で三十九歳になる。図書《ずしよ》寮の役人を、しばらく前までやっていたのだがな、今は、やめて坊主になってしまっている」

「どうしてまた坊主に──」

「一年近く前、病で父と母を同時に失《な》くしてな。それで思うところあって、髪を切ってしまったということだ」

「ふうん」

「話はこれからなんだが、その資之の行った寺というのが、妙安寺さ」

「西の桂川に近いあの寺か」

「そうだ。中御門大路を抜けて、さらに西へ行った所にある」

「それで──」

「僧名《そうみよう》は寿水《じゆすい》といってな、この寿水め、親の供養《くよう》にと『般若《はんにや》経』の写経を思い立った」

「ほう」

「一日十回。一千日それを続けることにしたというのだ」

「凄《すご》いな」

「それからまあ、今日まで、やっと百日余りの時間が経ったのだが、この寿水のやつめが、この八日ほど前からあやかしに悩まされておってなあ」

「あやかし?」

「そうだ」

「どんなあやかしだ」

「そうさな、女のあやかしさ」

「女かよ」

「それが実に色っぽい女なのだ」

「見たのか」

「いや、見てはいない」

「なんだ」

「資之──つまり寿水がそう言ったんだ」

「まあいい。それがどんなあやかしかを聞かせてくれ」

「それがさ、晴明──」

 博雅は、もう一度、杯に手を伸ばし、酒を飲んでから唇を開いた。

「夜のことでな……」

 博雅は語り出した。

 夜──

 寿水が眠るのは、戌《いぬ》の刻をまわってからである。

 眠るのは、離れの僧坊である。

 いつも独りだ。

 小さな寺である。

 坊主の数は、十人もいない。寿水を合わせて八人である。

 坊主になる人間が、修行をするような寺ではない。

 公家や武士の、そこそこ名のある者が、隠居するかわりに出家して身を置いておくのにほどよい寺で、事実、そのような目的で使われている。

 密教僧のような厳《きび》しい修行もなく、身内の者が、折に触れて寺に銭を渡しておけば、もともとの坊主ほど戒律《かいりつ》にも縛られず、時おりは、雅《みやび》な場所へ顔を出すこともでき、望めば離れの僧坊を、個室として使うこともできるのである。

 その夜、寿水はふと眼を覚ました。

 はじめ、寿水は、自分が眼を覚ましたことがわからなかった。

 まだ眠りの途中だと思っていたら、眼を開いていて、青い天井の闇を見つめていたのである。

 何故、眼を覚ましたのか。

 横へ顔を向けると、庭に面した障子に、青い月の影が差し、かえでの葉影を、その上に落としていた。

 最近|流行《はやり》だした、障子の小窓だ。

 わずかに風があるらしく、かえでの影が微《かす》かに揺れている。

 障子に落ちた月影は、眩《まぶ》しいくらいであった。

 その障子に差した月明りが、部屋の闇を、しんと青く澄んだ闇にしているのである。

 その障子の明りが顔に差し、それで自分は眼を覚ましたのだと、寿水は思った。

 どのような月が出ているのか──

 寿水は興味を覚え、寝床を脱け出して、障子戸を引いた。

 冷や冷やとした夜気が、部屋に入り込んできた。

 顔を半分出して見上げると、かえでの梢《こずえ》越しの天に、みごとな上弦の月が出ていた。

 細かく、かえでが揺れている。

 外へ出てみる気になった。

 戸を開けて、廊下へ出た。

 外としきりのない、黒い板張りの廊下だ。

 木目が浮き出、いつもは黒ずんでいるはずの、その廊下の表面にも、青い月光が影を落とし、まるでよく磨かれた青黒い石の表面を見るようであった。

 庭の草木の匂いが、夜気の中に満ちていた。

 素足で、冷たい廊下を踏みながら歩いてゆくと、寿水はようやく、それに気がついた。

 それ、というのは、人のことである。

 歩いてゆく、前方の廊下の上に、なにかの影がわだかまっているのである。

 いつ、そんな影がそこに出現したのか。

 始めに廊下に出た時には、確か、そこにそんなものはなかったはずだと思う。

 いや、でも、それは自分の思い違いで、それは始めからそこにあったのかもしれなかった。

 寿水は足を止めていた。

 人であった。

 それも、女だ。

 廊下に正座をして、軽く顔を伏せていた。

 |羅 《うすもの》の単《ひとえ》を、その身につけている。

 単の下は、どうやら裸であるらしい。

 うねうねとうねる髪に月光が滑り、つやつやと濡《ぬ》れたような光を放っている。

 ──と。

 その時、女が顔をあげた。

 あげたといっても、わずかである。

 正面よりはまだやや伏せたかたちになっている。それを寿水は上から見ているため、はっきりと、女の顔の全部が見えるわけではない。

 女は、口元に、右袖《みぎそで》をあてていた。

 その袖から、白い指先が出ている。

 袖とその手とに隠されて、女の口元を見ることはできなかった。

 女の黒い瞳《ひとみ》が、上眼づかいに寿水を見ていた。

 美しい、大きな瞳であった。

 その瞳が、何か訴えるように、寿水を見つめている。

 切ない、哀《かな》しい瞳であった。

「誰だ?」

 寿水は言った。

 しかし、女は答えない。

 さわ……

 と、かえでの葉がそよぐばかりである。

「誰だ?」

 寿水はまた訊いた。

 やはり、女は答えない。

「何の用か」

 寿水は問うた。

 しかし、女は答えなかった。

 答えないかわりに、女の瞳の中に、哀しみの色が濃さを増した。

 寿水は、一歩、足を前に踏み出した。

 女の様子は、はかなげで、この世のものとは思われない。

「もののけか?」

 寿水が問うた時、すっと女が、口元を押さえていた手をはずした。

 寿水は、声をあげていた。


     三


「なあ、晴明よ、女がその手をはずして、どうだったと思う?」

 博雅が、晴明に訊いた。

「さあて、どうだったのか話してくれ」

 考えもせずに、あっさりと晴明が言った。

「ちぇ」

 と、博雅は舌を鳴らして、晴明を見た。

「その女にはな──」

 と、博雅は声をひそめた。

「うん」

「その女には、口がなかったのだよ」

 どうだと言うように、博雅は晴明を見ている。

「それで?」

 あっさりと晴明が訊く。

「驚かないのか、おまえ」

「驚いたよ。だから続きを話せ」

「それで、女は消えたのさ」

「それで終りか」

「いや、終りではない。まだ続きがある」

「ほう」

「また出たのだ」

「女がか?」

「翌日の晩さ──」

 その翌日の晩も、寿水は、真夜中頃眼を覚ましたのだという。

 やはり、どうして自分が眼を覚ましたのかわからない。

 冴《さ》え冴えとした月の影が障子に落ちている。

 ふと、昨夜のことなど思い出して、廊下を覗《のぞ》いてみた。

「そうしたら、そこに、また女がいたのだよ」

「どうなった?」

「前の晩と同じさ。女が袖をあげ、口が無かったところで、また、消えた──」

「おもしろい」

「それが毎晩さ」

「へえ」

 何故かわからないが、夜半に眼が覚める。

 廊下に出ると、そこに女がいる──。

「廊下へ出なければ?」

「しかし、眼は覚めるのだ」

 眼を覚ましても、廊下へ出ずにいると、いつの間にかその女は、寿水の枕元に座して、口を袖で隠したまま、上から寿水を見降ろしているのだという。

「他の坊主は、そのことを知っているのか」

「どうやら、まだ、誰も知らないらしいのだ。まだ誰にも話してはいないらしい」

「わかった。それが七日続いたということだな」

「いや、もしかしたら、昨夜も出ているだろうから、そうすれば八日続いたということになる」

「寿水とはいつ会ったのだ?」

「昨日の昼さ」

「ふむ」

「おれとおまえの仲を知っていてな。できることなら、人に知られないうちに、なんとかしてほしいと言うていた」

「しかし、おれで何とかできるかどうかは、わからぬぞ」

「なんの、晴明にできぬことなどあるものかよ」

「まあ、行ってみるさ」

「行ってくれるか。それはありがたい」

「女の顔を見たくなった」

「そうだ、思い出したぞ──」

「なんだ?」

 晴明が訊いた。

「その、七日目の晩だがな。その晩がいつもと少し違うておった」

「どう違っていたのだ」

「まあ、待て──」

 博雅は、右手を懐《ふところ》に入れて、中から紙片を取り出した。

「これを見てくれ」

 晴明に差し出した。

 その紙片に、文字が書かれている。

「なんだ、歌ではないか」

 晴明は、その紙片に視線を落としながら言った。


  みゝなしの山のくちなしえてし哉《がな》おもひのいろのしたぞめにせん


 とある。

「たぶん『古今集』の歌だな」

 晴明がほろりと言った。

「驚いたな、晴明、その通りだよ。よくわかったな」

 博雅が声を大きくした。

「歌のひとつやふたつ、作ったことがある人間なら、このくらいは知っているさ」

「おれは知らなかったぞ」

「おまえらしくていいさ」

「なんか、馬鹿にされてるみたいだな」

 言いながら、博雅は、最後に残った酒を、全部|喉《のど》に流し込んでいた。

「それで、この歌と、女とどういう関係があるのだ」

「うん。その七日目の晩だったのだがな。寿水のやつ、枕元に灯りを置いてな、『古今集』を読みながら寝たのだ。起きられるだけ起きておいて、どうしても眠くなったら寝る。そうすれば、夜半に眼を覚まさずにすむと思ったらしい」

「ははあ」

「しかし、それでも駄目だった。やはり、夜中に眼が覚めた。気がつくと、女が枕元に座っていてさ、『古今集』のこの歌ののっている場所が開いてあった」

「ふむ」

「それで、その女が、左手の指で、この歌を指差していたというんだよ」

「それで──」

「それで終りだ。寿水がその歌に眼をやると、女は静かに消えた──」

「おもしろいな」

 晴明がつぶやく。

「おもしろいのはいいが、だいじょうぶか」

「だいじょうぶも何も、そんなことはわからないと言ったろう。とにかくまずこの歌さ。なんで、その女はこの歌を指差していたのであろうな」

「さあ、おれには見当がつかないよ」

 晴明の手の中の紙片に、博雅も視線を落とす。

�耳成山のくちなしを手に入れたいものだ。それで染めれば、耳無しであり口無しであって、自分の恋が人にも聞こえまいし、噂にもたつまいに……�

 それほどの意味である。

 博雅にも歌の意味はわかる。

 わかるが、問題は、何故その女がその歌を指差していたかである。

 作者《よみびと》不明《しらず》の歌であった。

「女に口がなかったのと、この|くちなし《ヽヽヽヽ》ということに関係があるんだろうがな」

 博雅が言った。

 しかし、そこから先がわからないのである。

「どうだ、何かわかるか、晴明──」

「なんとなく、思いつくことはひとつふたつあるのだが──」

「ふうん」

「とにかく、その妙安寺に出かけてみるか」

「おう。いつゆく」

「今夜でもいいぞ」

「今夜か」

「うん」

 晴明がうなずいた。

「ゆこう」

「ゆこう」

 そういうことになった。


     四


 ひやりと、夜気が冷たかった。

 庭の繁みの中で、晴明と博雅は、月を眺めながら、待っていた。

 じきに、夜半である。

 そろそろ、女が出てくる刻限である。

 空にかかっているのは、満月であった。

 西に、半分傾いた満月の光が、青く庭いっぱいにそそいでいた。

 その光は、ふたりが隠れている繁みの正面の、僧坊の廊下にも差し込んでいる。

「そろそろではないか」

 博雅が言った。

「うん」

 晴明は低く答えただけで、そぞろに、月光を浴びた周囲の庭の光景などに眼をやっている。

 さわさわと庭の樹々を吹いて、風が渡ってくる。

 たっぷりと湿り気を含んだ風であった。

「ほう」

 その風の中に鼻を差し込んで、晴明は声をあげた。

「どうした」

 博雅が声をかける。

「この風──」

 晴明がつぶやいた。

「風がどうかしたか」

「じきに梅雨に入るぞ」

 ぼそりと言った。

 その時、僧坊の方に眼をやっていた博雅が身体を堅くした。

「戸が開いたぞ」

 言った。

「うむ」

 晴明がうなずく。

 僧坊の部屋の戸が開いて、そこから、寿水が出てきた。

「女だ」

 晴明が言った。

 はたして、廊下に、何かの影がうずくまっていた。

 晴明の言うように、それはまさしく、話に聴いた通りの、素肌に|羅 《うすもの》の単《ひとえ》をまとった女であった。

 寿水が、女と向きあった。

「ゆくぞ」

 晴明がささやいて、繁みから廊下の方へ庭を歩き出した。

 その後から、博雅が晴明に続いた。

 廊下の縁《えん》まで庭を歩いてくると、晴明はそこに立ち止まった。

 女が、晴明に気づいて、顔をあげた。

 なるほど、袖で顔を隠している。

 黒い瞳が、じいっと晴明を見た。

 吸い込まれるような瞳であった。

 晴明は、懐に手を差し込んで、一枚の紙片を差し出した。

 月明りに、何やら、一字だけ、その紙に書いてあるのが見える。

 女が、その紙片に眼をやった。

 喜びの色が、女の瞳の中に浮かんだ。

 袖をはずした。

 口がなかった。

 女が、晴明を見ながら、大きくうなずいた。

「何が望みだ」

 晴明が女に問うた。

 女は、静かに、後方へ顔を向けた。

 その後、ふっ、と女が消えた。

「消えたぞ、晴明」

 博雅が、興奮した声で言った。

「わかってるさ」

 晴明が答えた。

「何だったのだ。女に見せたその紙は?」

 博雅が、まだ晴明の手にある紙片を眺めた。

 その紙には、

�如�

 と、ただ一字のみ書かれてあった。

「消えましたな」

 寿水が言った。

 その寿水に、晴明が声をかけた。

 今しがた、女が顔を向けた方角を、手で示し、

「あちらは?」

 訊いた。

「いつも、昼間、わたしが写経をしている別室があるはずですが──」

 寿水が答えた。


     五


 翌日の早朝であった。

 晴明、博雅、寿水の三人は、その別室の中に立っていた。

 文机《ふづくえ》が正面にあり、その上に、一冊の『般若経』──『般若|波羅蜜《はらみつ》多心経』が置いてあった。

「見てもいいか」

 晴明が言った。

「いいとも」

 寿水がうなずいた。

 その経を手にして、晴明がぱらぱらとその中に眼を通してゆく。

 その手と、眼の動きが止まった。

 経の一点を見すえていた。

「これか──」

 晴明が言った。

「なんだ」

 博雅が、晴明の肩越しに、その経に眼をやった。

 字が書かれていて、その文字のひとつが、大きく汚れていた。

「これが、あの女の正体ですね」

 晴明がつぶやいた。


  色即是空《しきそくぜくう》

  空即是色《くうそくぜしき》


 その先に、


  |受想行 識《じゆそうぎようしき》亦復《やくぷ》女是《によぜ》


�女�の文字があった。

 その女の文字の右側が、墨《すみ》で汚れていた。

 本来であれば、亦復|如《ヽ》是と続くべき言葉であった。

「それがどうして、あの女の正体なんですか──」

 寿水が訊いてきた。

「だからこれさ、『般若心経』の文字のひとつが、化けて出てきたのさ」

 晴明が言った。

「これは、あなたが汚したのですか」

 晴明が、寿水に訊いた。

�女�の字の横の汚れを指差した。

「そうです。写経をしている最中に、墨を落として汚してしまいました」

「ならば、話は早い。筆と墨と紙とのりを用意していただけますか」

 晴明が言った。

 寿水が、言われたものを用意した。

 晴明は、紙を小さく切って、�女�の右横の汚れの上に張りつけた。次には、筆にたっぷりと墨を染み込ませ、張ったばかりの紙の上に�口�の字を書き込んだ。

 それで、�如�という字になった。

「なるほど、そういうわけかよ、晴明」

 博雅がぽん、と手を打った。

「それで、女に口がなかったわけだ」

 博雅は大いに感心して、晴明を見ている。

「これでもう、あの女が出ることはあるまいよ」

 晴明は言った。

「|もの《ヽヽ》にも霊があるというのは、おまえの言った通りだったな」

 博雅は、自分で何かひどく納得したようにうなずいた。

 晴明は、博雅を振り向いて、ぽんと肘《ひじ》を博雅の腹にあてた。

「どうだ、おれの言った通りだ」

「え」

「梅雨が始まったぞ」

 晴明が言った。

 博雅が外に眼をやると、緑あふれる庭に、針よりも細く、絹糸よりも柔らかい雨が、音もなく草の葉を濡らしていた。

 それから、女は、二度と出ることはなかった。

[#改ページ]


   黒《くろ》 川《かわ》 主《ぬし》



     一


 魂が透きとおるほどの、美しい夜であった。

 虫が鳴いている。

 邯鄲《かんたん》。

 鈴虫。

 馬追《うまおい》。

 それらの虫が、叢《くさむら》で、さっきから鳴いているのである。

 上弦の月が、大きく中天から西に傾いていた。

 すでに嵐山の上あたりに、その月はかかっているはずであった。

 月の周辺に、ひとつふたつ、銀色の雲が浮いている。その雲が、夜の天を東へ流れてゆく。そのため、月が見ていてそうとはっきりわかるほどの速度で、西へ向かって動いているようであった。

 中天に、星が無数である。

 庭の草に夜露がおりて、それが、闇の中で点々と光っている。

 天の星が、露のひとつずつに、そのまま宿っているようであった。

 庭に、夜の天がある。

「いい晩だな、晴明《せいめい》──」

 言ったのは、博雅《ひろまさ》である。

 ──|源 《みなもとの》|博雅 《ひろまさの》朝臣《あそん》。

 武士である。

 実直そうな面構えをしているが、どこがどうというわけではない愛敬《あいきよう》が、その表情のどこかに漂っている。愛敬とは言っても、女のなよなよしたものではない。この男の場合は、その愛敬すらも武骨である。いい晩だと言ったその言葉も、実直でまっすぐだ。

�いい晩だな�というのも、世辞だとか、風雅のふりをしてそう言っているのではない。本当にそう思ったからこそ、そう言ったのであり、それがまた聴いている方にもよくわかる。

 そこに犬がいれば、�犬がいるな�と言うのと同じ言い方に近いものがあるのである。

 言われて、晴明は、

「ふふん」

 と、月を見あげている。

 博雅の言葉をちゃんと聴いているようでもあり、そうでないようでもある。

 不思議な雰囲気を、その身にまとわりつかせた男だった。

 安倍晴明《あべのせいめい》──陰陽師《おんみようじ》である。

 肌の色が白く、鼻筋が通っている。

 眼は、薄い茶のかかった黒だ。

 白い狩衣《かりぎぬ》を無造作に着て、縁《えん》の柱に背をあずけている。

 右膝を立て、右腕の肘《ひじ》をその膝の上にのせている。

 その右手には、飲み干して空になったばかりの杯を握っていた。

 その前に、胡座《あぐら》をかいているのが博雅である。

 ふたりの間に、酒が半分ほど入った瓶子《へいし》と、皿が置かれている。皿の上にのっているのは、塩をふって焼いた鮎《あゆ》である。

 その皿の横に、灯り皿があり、その上で炎が揺れている。

 博雅が土御門大路《つちみかどおおじ》にある、この晴明の屋敷を訪ねたのは、その日の夕刻であった。

 いつもと同じで、供の者も連れずに、

「いるか、晴明──」

 そう言って、開け放たれたままの門をくぐってきたのである。

 水の入った手桶《ておけ》を右手に下げていた。

 皿の上の鮎は、その手桶の中で泳いでいたものである。

 博雅は、わざわざ、自分でその鮎を持ってきたのであった。

 宮仕えの武士が、供の者も連れずに、手に鮎の入った手桶を下げて歩いてくるなど、あまりあることではないが、この博雅、そういうことにはかまわぬ性格であるらしい。

 珍らしく、晴明自身が博雅をでむかえた。

「おまえ、本当に晴明か──」

 博雅は、出てきた晴明にむかってそう言った。

「本物さ」

 晴明が言っても、博雅は、まだ疑わしそうに晴明を見ていた。

 晴明の屋敷を訪ねても、最初に出てくるのはいつも、なにやらの精であったり、鼠であったりするからである。

「いい鮎だな」

 晴明は、博雅の持ってきた手桶の中を覗《のぞ》き込んで言った。

 桶の中では、太い鮎が、鈍い刃物の色をした腹を、時おりぎらりとゆらめかせて泳いでいた。

 鮎は、全部で六尾いた。

 その鮎が、今、焼かれて皿の上にのっているのである。

 鮎は、二尾になっていた。

 二尾ずつ、晴明と博雅が食べたのである。

 いい晩だなと言った博雅の視線が、その鮎の上にそそがれて、止まった。

「不思議だなあ、晴明よ──」

 博雅が、酒の入った杯を唇へ運んでから、晴明に言った。

「何がだ?」

 晴明が言った。

「いや、おまえの屋敷がだよ」

「おれの屋敷のどこが不思議だ」

「人の気配がない」

「それが何故不思議だ」

「人の気配がないのに、鮎が焼けた」

 博雅は言った。

 博雅が不思議に思うのにも理由がある。

 しばらく前、訪ねてきた博雅を、いったんこの縁に連れてきてから、

「では、この鮎を誰ぞに料理《つく》らせるか──」

 晴明はそう言って、鮎の入った手桶を下げて、家の奥に姿を消したのだった。

 もどってきた時には、晴明はその鮎の入っていた手桶を持ってはおらず、かわりに、酒の入った瓶子《へいし》と、ふたつの杯ののった盆を持ってきたのである。

「鮎は?」

 博雅が訊くと、

「今焼かせている」

 静かに晴明は答えるばかりだった。

 ちびちびと酒を飲んでいると、

「もういい頃だな」

 そう言って、晴明は立ちあがり、再び家の奥に姿を消した。そうして、またもどってきた時に、晴明は、焼けた鮎ののった皿を手にしていたのであった。

 そういうことがあったのだ。

 その時、広い屋敷のどこに晴明が姿を消したのか、博雅にはわからない。また、鮎を焼く気配も伝わってはこなかった。

 鮎を焼くもなにも、晴明の他に、この家に人の気配らしきものがまるでないのである。

 訪れた時に、人の姿を見かけたりもするが、その数も、その時によりまちまちである。多数の時もあれば、たったひとりの時もある。誰もいない時だってある。まさか、これだけの家に、晴明が独りで暮らしているとは思えないが、では、いったい何人の人間がいるのかとなると、その見当がつかないのである。

 式神《しきがみ》を、その必要に応じて使うだけで、実は、本物の人間などどこにもいないのかもしれず、また、ひとりやふたりならば、ほんとうの人間も実際にいるかもしれないのだが、博雅にはそれがわからないのだ。

 晴明に訊いても、晴明は笑っているばかりで答えてくれたことはない。

 それで、あらためて博雅は、鮎を理由に、この屋《や》のことについて問うたのであった。

「鮎は、人が焼くのではないぞ、火が焼くのだ」

 晴明が言った。

「え?」

「その火を|みる《ヽヽ》のは人間でなくともよいではないか」

「式神を使うたか?」

「さあて」

「教えろよ、晴明」

「今、人ではなくともいいと言ったのは、むろん、人であってもよいという意味だぞ──」

「どっちなんだ」

「だからどちらでもいいのさ」

「おれはよくない」

 博雅が言う。

 晴明は、初めて、天から博雅に視線を移した。

 晴明の唇が、微笑を含んでいる。

 薄く紅を塗ったように赤い唇だった。

「では、呪《しゆ》の話をしようか」

 晴明が言った。

「また、呪かよ、晴明──」

「そうだ」

「頭が痛くなってきた」

 そう言った博雅を見て、また、晴明が微笑した。

 この世で一番短い呪は、名であるとか、そこらの石にも呪がかけられているだとか、博雅は、過去に何度か、晴明に呪の話を聴かされている。

 聴かされる度に、わからなくなる。

 晴明の言うことを聴いている瞬間は、それでもわかっているような気分になるのだが、話を終え、どうだと問われた途端に、わけがわからなくなるのである。

「式神を使うというのは、むろん、呪によるものだが、人を使うのも呪によるのだ」

「───」

「銭で縛《しば》るも、呪で縛るも、根本は同じということさ。しかも、名と同じで、その呪の本質は、本人──つまり、呪をかけられる側の方にある……」

「うむ」

「同じ銭という呪で縛ろうとしても、縛られる者と、縛られぬ者がいる。銭では縛られぬ者も、恋という呪でたやすく縛られてしまう場合もある」

「ううむ」

 わかるようなわからぬような、博雅はそんな顔つきをして、腕を組んでいる。

 身体に力がこもっている。

「晴明よ、頼むから話をもどしてくれ」

「もどす?」

「おう。おれがさっき口にしたのはだな、人が誰もいない気配であるのに鮎が焼けた、それが不思議ということなのだ」

「うむ」

「だから、式神に命じて焼かせたのかと訊いたのだよ」

「どちらでもいいではないか」

「よくない」

「人にしろ式神にしろ、呪が焼かせたのだからな」

「おまえが、何を言おうとしているのか、おれにはわからないよ」

 博雅は、言い方も正直である。

「だから、人が焼くも式神が焼くも、同じだというのさ」

「何が同じなのだ」

「よいか博雅、おれが人に命じて鮎を焼かせたのなら、不思議ではないだろう?」

「ああ」

「だったら、おれが式神に命じて鮎を焼かせるのも、まるで不思議ではないのだ」

「むむ──」

「本当に、不思議というのはそういうことではないぞ。命ぜずとも──つまり呪もかけず何もせぬのに鮎が焼けてしまうことがあれば、それを不思議というのだ──」

「ううむ」

 博雅は腕を組んだまま、唸《うな》った。

「いやいや、おれは騙《だま》されないぞ、晴明──」

「騙してはおらん」

「いや、騙そうとしている」

「困ったな」

「困るな晴明。おれが知りたいのは、鮎を焼いた火を|みて《ヽヽ》いたのは、人なのか式神なのかということだよ。それを教えてくれればいいのだ」

 博雅の問は、真っ直《すぐ》である。

「それを答えればよいのか」

「そうだ」

「式神だ」

 晴明があっさりと答えた。

「式神か」

 ほっとしたように、博雅が言った。

「納得したか」

「ああ、納得はしたが──」

 博雅の表情は、どこかもの足りなそうである。

「どうした」

「なんだか、やけにあっけなくてな」

 博雅は、手酌《てじやく》で酒を注《つ》ぎ、杯を口に運んだ。

「あっけなくてつまらないか」

「うん」

 答えて博雅は、空になった杯を置いた。

「正直な漢《おとこ》だな、博雅は」

 晴明は言った。

 視線を庭へ移した。

 右手に、焼いた鮎を握っている。

 鮎を、白い歯で齧《かじ》る。

 ぼうぼうとした庭であった。

 手入れをほとんどしていないのである。

 野山の土地を、そのままただ唐破風《からはふ》の塀で囲っただけのようである。

 露草。

 檜葉《ひば》。

 |※[#「くさかんむり/((口/耳)+戈)」、unicode857A]草《どくだみ》。

 そこらの山野に見られる雑草が、一面に繁っている。

 大きな欅《けやき》の下には紫陽花《あじさい》が、ほの暗く青紫色の花を咲かせ、太い楠《くすのき》に、藤がからんでいる。

 庭のひと隅には、花を落とした一人《ひとり》静《しずか》の群落がある。

 すでに、芒《すすき》も、丈高く伸びていた。

 それらの草が、闇の中にうずくまっている。

 博雅には、ぼうぼうとした庭の闇にしか見えないが、晴明にはそれらの草がひとつずつ判別できているようであった。

 しかし、博雅にも、低く差してくる月光の色や、星を宿した草の露は見てとれる。

 庭を渡る風に、それらの草や葉が、闇の中でさわさわと鳴る気配も、博雅には心地よい。

 文月《ふみづき》──

 太陰暦でいう七月三日の晩であった。

 現代ならば、八月に入ったかどうかというところである。

 夏である。

 日中は、木陰で凝《じ》っとしていても汗が出てくるが、風の吹く夜の縁《えん》で、板張りの廊下にこうして直接腰を下ろしていれば、それなりの涼味《りようみ》がある。

 葉や草に宿った露で、庭全体が冷され、大気が涼しくなっているのである。

 飲むうちに、草の露は、ますます大きくその実を結んでゆくようであった。

 透明な夜であった。

 天の星が、庭の草の上に、ひとつずつ降りてきているようであった。

 晴明が、食べ残した鮎の頭と骨を、ひょいと庭の草の中に投げる。

 かさり

 と、草の中で音がして、草の揺れる音が闇の向こうに遠ざかってゆく。

 その音のした一瞬に、草の奥で、双《ふた》つの緑色の光が、きらりと光るのを博雅は見た。

 けものの瞳《め》であった。

 何かの小動物が、晴明の投げた鮎の骨を咥《くわ》え、草の中を去っていったものらしかった。

「鮎を焼かせた礼さ──」

 博雅が、何か問いたげな眼で自分を見ているのに気づき、晴明は言った。

「ああ」

 博雅が素直にうなずいた。

 しばらくの沈黙があった。

 風が吹いて、庭の草が動き、闇の中で点々と星の光を揺らした。

 ──と。

 その地の星の中から、青みを帯びた黄色い光が、すっとゆるい弧を描いて、浮きあがった。

 闇を呼吸するかのように、その光は、強くなったり弱くなったりを数度繰り返し、ふっと見えなくなった。

「螢だな──」

「螢だな──」

 晴明と博雅が、同じ言葉をつぶやいた。

 また、静かな沈黙があった。

 その間に、二度、螢が飛んだ。

「そろそろどうだ、博雅よ──」

 ふいに晴明がつぶやいた。

 晴明は、庭に眼をやったままだ。

「そろそろとは?」

「おれに何か頼みごとでもあってきたのではないのか」

 晴明が言うと、

「わかっていたかよ、晴明──」

 博雅が、頭を掻《か》きながらうなずいた。

「ああ」

「おれは正直だからな」

 博雅は、晴明に言われる前に、自分から言った。

「で、どういう用件なのだ」

 晴明が言った。

 晴明は、柱に背をあずけたまま、博雅を見た。

 灯《あか》り皿の灯りが、小さな炎を揺らし、晴明の頬に、炎の色を映している。

「それがよ、晴明──」

 博雅が、頭ひとつ、身を前にのり出した。

「何だ」

「さっきの鮎だが、美味《うま》かったか?」

「ああ、いい鮎だった」

「その鮎よ」

「鮎がどうした」

「実は、その鮎、もらいものでな」

「ほう」

「鵜匠《うじよう》の、賀茂忠輔《かものただすけ》というのからもろうた──」

「千手《せんじゆ》の忠輔か」

「おう、その忠輔よ」

「法成寺の先あたりに住んでいるはずだが」

「よく知っているな。鴨川に近く、家があってな、そこで、鵜と一緒に暮らしている」

「それがどうしたのだ」

「そこで妖異《ようい》があった」

 博雅が、声をひそめて、言った。

「妖異だと?」

「うむ」

 前へのり出していた顔を、もとに引きもどして、博雅はうなずいた。

「その忠輔が、おれの母方の遠縁にあたる人物でな──」

「ほほう。武士の血をひいているか──」

「いや、正確にはそうではない。血をひいているのは、鵜匠の忠輔の孫だ……」

「ははあ」

「つまりだ、おれの母方の血をひくある人間の娘が、その忠輔の孫というわけなのだ」

「ふむ」

「その人間というのが、かなりの色好みの男でな。忠輔の娘の元へ、しばらく通ったことがある。それでできたのが、忠輔の孫の綾子《あやこ》という娘なのだ」

「なるほど」

「忠輔の娘の方も、色好みの男も、何年か前に病でこの世を去っているのだが、生まれたその娘は、まだ息災でな。今年、十九歳になる──」

「で?」

「妖異があったのは、その孫の綾子の方なんだよ」

「どんな妖異なんだ?」

「どうも何かに憑《とりつ》かれたらしいのだが、おれにもよくわからんのさ」

「ほほう」

 晴明の顔が、にんまりと微笑して、博雅を見ている。

「忠輔に泣きつかれたのが昨夜のことでな。いろいろ話を聴いてみると、どうやらおまえの方面の話らしいのでな、こうして鮎を持ってやってきたというわけなのだ」

「詳しく話せ」

 晴明に言われて、博雅は、吶《とつ》とつと話し始めたのだった。


     二


 忠輔の家は、代々が鵜匠を業《なりわい》としてきた。

 忠輔で四代目。

 齢《よわい》を数えて、六十二歳である。

 法成寺に近い、鴨川の西に家を建て、孫の綾子と一緒に暮らしていた。

 妻は、八年前に死んでいる。

 子供は、娘がひとりいたが、男に通《かよ》われて、子供をひとり産んでいる。

 それが、孫の綾子である。

 忠輔の娘──つまり綾子の母は、綾子が十四歳の時、五年前に、三十六歳で流行《はや》り病にあたって死んだ。

 通っていた男が、綾子をひきとろうと言っていたが、そう言っているうちに、当の男も、同じ流行り病にあたって死んでしまった。

 そのまま、忠輔は綾子と暮らして、五年が経っている。

 忠輔は、腕のいい鵜匠であった。

 一度に二十羽以上もの鵜を使うことができ、そのさばき方がみごとなことから、�千手の忠輔�と呼ぶ者もいる。

 宮中にも出入りを許されており、公家の舟遊びの折にも、よく呼ばれては魚を漁った。

 これまで、どこぞの公家のおかかえの鵜匠にという話もないではなかったが、それを断って、独りで鵜匠を続けているのである。

 忠輔が孫の綾子に男ができたらしいと思ったのは、ふた月ほど前である。

 どうも、通ってくる男がいるらしい。

 忠輔と綾子が眠るのは、別の部屋であった。

 綾子が十四の時までは、同じ部屋で眠っていたのだが、綾子の母親が死んで、半年後くらいから、別の部屋で眠るようになった。その綾子が、部屋を時々空ける晩があることに気がついたのが、ひと月ほど前の晩であった。

 その晩、忠輔は、ふと夜半に眼を覚ました。

 雨が降っていた。

 しっとりした、柔らかな雨が、糸のように屋根の上に落ちてくる気配があった。

 眠った時には降っていなかった雨が、夜半になって降り出したものらしい。

 子《ね》の刻を、ややまわったくらいであろうか。

 ──何故、眼を覚ましたのか。

 忠輔がそう考えた時、外で、ばしゃりと水の跳ねる音がした。

 それで、忠輔は思い出した。

 眠りの中で、その同じ音を耳にしたのである。

 その水音で、眠りをさまたげられたのだ。

 庭の堀で、何かが跳ねたらしい。

 忠輔は、鴨川から、家の庭まで水を引いている。引いた水を溜めて堀を造り、そこに鮎やら鮒《ふな》やら、鯉《こい》やらを放してある。

 そこで、鯉か何かが跳ねたのであろうと思った。

 考えているうちに、うとうととして、また浅い眠りに入った頃、再び、

 ばしゃり

 音がする。

 もしかすると、その魚をねらって、獺《うそ》か何かがやってきたのかもしれなかった。

 それともなければ、鵜の一羽が抜け出して、堀に跳び込んだのかもしれない。

 外の様子を見てみる気になって、灯りを点けた。

 簡単に身ごしらえをして、外へ出ようとして、ふと、気になった。

 孫の綾子のことがである。

 家の中が、あまりにもしんとしているからである。

「綾子……」

 声をかけて、戸を開いた。

 そこで眠っているはずの、綾子の姿がなかった。

 暗い、せまい部屋に、忠輔の手にした灯りが揺れるばかりである。

 用を足しに外へ出たかと思ったが、妙に胸騒ぎがする。

 土間へ降り、戸を開けて外へ出た。

 そこで、忠輔は、綾子と顔を合わせたのであった。

 綾子は、濡《ぬ》れたような瞳で忠輔を見、無言で家の中に入ってきた。

 髪も、着ている小袖も、雨にあたったためか、しぼれば水が落ちそうなほど濡れている。

「綾子……」

 忠輔が声をかけたが、綾子は答えない。

「どこへ行っていたのだ」

 忠輔が問う声を背で聴いて、綾子は部屋へ入って戸を閉めてしまった。

 それで、その晩はそれっきりになった。

 翌朝、忠輔が昨夜のことを訊ねても、綾子は首を振るばかりである。

 何も覚えてはいないらしい。

 忠輔が、自分の方が寝ぼけて夢を見ていたかと思えるほど、綾子の態度はいつもとおなじである。

 そのうちに、そのことを忠輔も忘れてしまった。

 次に、忠輔が似たような体験をしたのは、そのことがあってから、十日目の晩であった。

 最初の晩と同じであった。

 夜半に、ふと眼を覚ました。

 水音が聴こえている。

 やはり、外の、堀の方である。

 ばしゃり

 と、音がする。

 魚などではない。

 かなり大きなものが、水面を叩く音である。耳を澄ませていると、また、

 ばしゃり

 音がする。

 忠輔は、十日前の晩のことを想い出していた。

 そっと、起きあがった。

 身ごしらえもせず、灯りも点けずに、綾子の部屋まで忍び寄った。

 戸を開ける。

 窓から、幽《かす》かに月光が差していて、部屋の中が朧《おぼろ》に見えている。

 誰もいない。

 異臭が鼻をついた。

 獣の臭いである。

 しとねに手で触れると湿っている。

 ばしゃり

 と、外で音がする。

 忠輔は、そっと出口へ足音をしのばせて、戸に手をかけた。その戸を引き開けようとして思いとどまった。

 うっかり開けては、堀で水音をたてている者に気づかれてしまうおそれがある。

 裏手から、外に出た。

 腰をかがめ、家をまわって堀のある方へ音をたてぬように動いてゆく。

 家の陰から、そっと顔を出した。

 月が、天から差していた。

 その月光を浴びて、堀の水の中で、何ものかが動いていた。

 白いもの──

 裸形の人間、女であった。

 女が、腰以上もある水の中に身体を沈めて、真剣な顔で、水の中を見下ろしているのである。

「綾子……」

 忠輔は、呆然《ぼうぜん》としてつぶやいた。

 それは、孫の綾子であった。

 綾子は、全裸で、腰より上まで水につかり、ぎらぎらする目で、水中を睨《にら》んでいるのである。

 その上から、月光が差している。

 白い綾子の濡れた肌の上に、きらきらと青い月光が滑る。

 美しいが、尋常《じんじよう》でない光景であった。

 綾子は、その口に、なんと、大きな鮎を咥《くわ》えていたのである。

 見ている間にも、綾子は、がつがつと音をたてて、|なま《ヽヽ》の鮎を頭から食べてゆく。

 奇異《あさまし》の姿であった。

 食べ終えて、綾子は、唇の周囲についた血を舌で舐《な》めとった。

 普通の時の、倍以上もその舌は長かった。

 ばしゃり

 と、月光の飛沫《しぶき》をあげ、綾子は頭から水の中に潜った。

 水面に顔をあげた時、綾子は、その口に、こんどは鯉《こい》を咥えていた。

 ふいに、横手から、ぽんぽん、という音が響いてきた。

 手を打つ響きであった。

 目を転じた忠輔はそこに人影を見ていた。

 堀の縁《ふち》に、ひとりの男が立っていた。

 中背の、頸《くび》のすらりと伸びた男であった。

 男は、黒い狩衣に、黒い袴《はかま》をはいていた。

 それで、忠輔は、そこに人がいることに気づかなかったのである。

「おみごとさま……」

 男は、微笑して、水の中の綾子を見ている。

 鼻が、大きく前に尖《とが》っている他は、特別に外見のどこがどうという特徴はない。のっぺりとした印象の、やけに眼の大きな人間であった。

 それが、にいっと唇を横に引いて、声に出さずに微笑しているのである。

「喰え──」

 男が低くつぶやくと、綾子は、口に咥えた大きな鯉を、鱗《うろこ》も落とさずに、生《なま》のまま頭からばりばりと食べ始めた。

 ぞっとした。

 綾子は、忠輔の見ている前で、そのまま、鯉を骨も残さずに食べてしまったのだった。

 また、潜った。

 ざぶりと、綾子が水面から頭を持ちあげた。

 鮎を咥えていた。

 大きな鮎であった。

「綾子」

 忠輔は、声をあげて、家の陰から出ていった。

 綾子が、忠輔を見た。

 その途端、咥えられていた鮎が大きく跳ねて、綾子の口からはずれていた。

 堀に入り込んだ水が、堀から流れ出てゆく場所に、竹を編んで造った板が塞いでいた。

 水を逃がし、中の魚を逃がさないためのものであった。

 跳ねた鮎は、その竹を編んだ板を越えて、その向こうの細い流れの方に身を踊らせていた。

「くちおしや」

 歯をむいて、綾子は呻き、しゅう、と人のものとは思えぬ呼気を吐いた。

 顔をあげた。

 忠輔を見た。

「何をしているのだ」

 忠輔が言うと、綾子は、歯をかちかちと噛み鳴らし、凄い眼つきになった。

「親父どのがまいられたか──」

 言ったのは、堀の縁に立っていた、黒い狩衣姿の男であった。

「また会おうぞ──」

 男は言って、身を翻《ひるがえ》した。

 たちまち闇の中に姿を消していた。


     三


「ほほう」

 声をあげたのは晴明である。

 嬉しそうに眼を細めて、博雅を見ている。

「なかなかおもしろいではないか」

 博雅に言った。

「おもしろがるなよ、晴明。これはかなり困った話なのだからな」

 博雅は、微笑を浮かべている晴明を、武骨な面持ちで見やった。

「続きを聴かせろよ、博雅」

「うん」

 答えて博雅は、また、頭ひとつ、身を前へのり出した。

「でな、その翌朝になると、綾子は自分が昨夜何をしでかしたのか、まるで覚えてはおらんのだよ」

「で──」

「話はこれからなんだが、その時になって、忠輔は、ようやく気づいたのさ」

「何に気づいた?」

「綾子が誰ぞの子を孕《はら》んでいるらしいってことにさ」

「おう」

「どうやら、身重の風情で、腹も出てきている」

「うむ」

「綾子の母親がそうであったからな。その母親のように、綾子が、通《かよ》ってきた男の子を孕んだとあれば、さすがに、忠輔も心が傷む。もう、六十二歳を越えた身であれば、いつまで綾子の面倒をみることができるか、それもわからない。できることなら、これが良い縁であれば、その男のもとに嫁がせるか、それができぬなら、囲われの女房でもかまわぬとまで考えた──」

「うむ」

「しかしだ、晴明よ──」

「おう」

「その相手の男というのが、どうにも尋常でない」

「そうだな」

「化生《けしよう》のものであろうかとの思いもある」

「ああ」

「そこで、忠輔は考えた」

「どう考えたのだ」

「綾子に訊いても埒《らち》はあかぬから、直接、男の正体をあばこうとしたのさ」

「おもしろい」

「おもしろがるなよ、晴明。でな、忠輔は待ち伏せすることにしたのさ」

「ふうむ」

「通いの男は、まず、いったんは綾子の寝所に顔を出し、その後に、綾子を外へ連れ出して、魚を喰わせているらしい」

「うむ」

「寝ずの番をして、男が来たらば、ただちにその男を捕えるか、捕えられぬまでも、どういうつもりであるのか、それを問い質《ただ》すつもりだった」

「ふふん」

「で、待ってはみたのだが、その日の晩も、そのまた翌日の晩も男はやってこない」

「しかし、やって来ることは来たのだろうが」

「来た」

 博雅は答えた。


     四


 忠輔は、夜になると、寝ずの番をした。

 綾子が眠ると、むっくりと起き出して、臥《ふ》し戸《ど》の上で、息を殺して待った。

 懐には鉈《なた》を握っている。

 しかし、待つとなると、なかなか男はやってこない。

 最初の晩は何事もなく過ぎ、いつの間にか、しらしらと夜が明け始めた。

 その次の晩も、また次の晩も同じだった。

 忠輔が眠るのは、夜がしらしらと明け始めてからの、ほんの数刻ばかりである。

 四日目の晩が明ける頃には、自分に見られたので、あの男はもうやって来ないのだろうかと思い始めた。

 そうして、五日目の晩になった。

 忠輔は、いつものように、自分の臥し戸の上に胡座《あぐら》をかき、腕を組んで凝《じ》っと待った。

 闇の中である。

 頭には、最近になって急に膨《ふく》らんできた綾子の腹が眼に浮かんでいる。

 それが不憫《ふびん》であった。

 闇のむこうから、綾子の寝息が聴こえてくる。

 それを聴いているうちに、さすがに眠くなった。

 うとうととした。

 忠輔が眼を覚ましたのは、外で飼っていた鵜が、騒がしくざわめいたからである。

 眼を開けた。

 すると、闇の中で、ほとほとと戸を叩く者があった。

 起きあがって、灯りを点ける。

「忠輔どの……」

 戸の向こうで声がする。忠輔が灯りを手にして、戸を開けると、そこに、先日の晩に見たあの男が立っていた。

 黒い狩衣、黒い袴に身を包んだ、眼元の秀麗な男だった。

 十《とお》ばかりの、女童《めのわらわ》をひとり、供としてひきつれている。

「どなたか?」

 忠輔が訊くと、

「まわりからは、黒川主と呼ばれておりますよ」

 男は言った。

 忠輔は、灯りを向けながら、しげしげと男と女童を見た。

 男は、貌《かお》だちは美麗ながら、どこかに卑《いやし》げな風情が漂っているようである。

 髪はぐっしょりと濡れているし、鼻には獣の臭いが漂ってくる。

 灯りを向けると、眩《まぶ》しそうにして、顔を横へ向ける。

 女童の方は、よくよく見れば、だいぶ口が大きい。

 不気味である。

 ──これはやはり人ではない。

 化生のものであろうと忠輔は思った。

「黒川主どのには、どのような用件でまいられたのか──」

 忠輔は訊いた。

「綾子どのがまことに美しい姫ゆえ、我が妻にせんと思うてまいった」

 ぬけぬけと言う。

 吐く息が、魚臭い。

 女童とふたりで闇の中を歩いてきながら、手に何の灯りも持ってはいない。

 これが人であるはずはない。

 忠輔は、ふたりをひとまず中へ通し、背後にまわった。

 懐に手を入れて、鉈を握った。

「綾子どの、おるか?」

 そう言った黒川主の背に、鉈でいきなり切りつけた。

 手応《てごた》えはなかった。

 鉈の刃は、それまで黒川主の着ていた狩衣を打ったばかりで、打たれた狩衣は、ふわりと下に落ちた。

 見れば、綾子の部屋の戸が開け放たれていて、そこに黒川主が裸で立っている。忠輔の眼にはその背中が見えている。

 黒川主の尻からは、黒ぐろとした太い尾が見えていた。

 おのれ

 と、足を前に出そうとしたが、忠輔の足は動かない。足だけではない。忠輔は、鉈を握った格好のまま、そこで動けなくなっていた。

 綾子は、嬉しそうに微笑して立ちあがっている。もう、忠輔がそこにいることなど、念頭からは消え去っているようである。

 綾子が、するりと身にまとっていたものを脱ぎ捨てて、全裸になった。

 窓から月明りが差して、その白い裸体が見えている。

 ふたりは、そこでそのまま堅く抱きあった。

 綾子が手を引くようにして、自分から先にそこへ横になった。

 それからおよそ数刻もの間、ふたりは忠輔の前であらん限りの痴態をくり広げたのであった。

 それがすむと、ふたりはともに裸で外に出て行った。

 水の音が聴こえた。

 堀で、ふたりが魚を漁っているらしい。

 もどってきたふたりは、それぞれ手に大きな生きた鯉を握っていた。

 頭から、ばりばりとふたりはそれを食べ始めた。

 骨も尾も鱗も残さない。

「また来る」

 そう言って、黒川主がたち去った時、ようやく忠輔の身体が自由になった。

 綾子に駆け寄った。

 綾子は、鼾《いびき》をかいて眠っていた。

 翌朝になると、綾子は眼を覚ましたが、やはり何も覚えてはいない。

 それから、毎晩、男は姿を現わした。

 どんなにしていても、男がやってくる直前になると、忠輔は眠くなる。眠くなってうとうととし、気がつくと、もう家の中に男が入っている。

 男は、そこでまたさんざん痴態を繰り広げた後、綾子と共に外へ出、魚を持ってもどってくると、それをふたりで生のまま齧った。

 男が帰ってゆき、翌朝目覚めれば、綾子は昨夜のことは覚えていないという。

 綾子の腹だけが大きくなってゆく──。

 それが毎晩である。

 たまりかねて、忠輔が相談に行ったのが、八条大路の西のはずれに住む、智応《ちおう》という方士の所である。

 智応は、二年ほど前に、東国の方からやってきてそこに住むようになった方士で、憑《つ》きもの落としを能くすると評判の男である。

 歳の頃は五十ばかりで、眼光|炯々《けいけい》、髯《ひげ》をはやした偉丈夫である。

「なるほど」

 忠輔の話を聴いて、智応はうなずき、

「三日後の晩にうかがおう」

 そう言って髯を撫《な》でた。

 はたして、三日後の夕刻に、智応は忠輔の家を訪れた。

 前もってしめしあわせてあるから、綾子はいない。

 外へ使いにやらせているのである。

 家の隅に、竹で編んだ大きな籠《かご》をかぶせ、智応はその中に潜んだ。

 籠の周囲には、鮎を焼いて炭《すみ》にし、それを粉にしたものをまいてある。智応が自分でその作業をしたのである。

 夜になって、子の刻ばかりになり、はたしてまた、黒川主がやってきた。

 入ってくるなり、黒川主は、鼻をひくつかせて、

「おや」

 首を傾《かし》げた。

「誰ぞがおるのか」

 つぶやくなり部屋をじろりと見回した。

 籠もその眼に触れたはずだが、そのまま視線は籠を通り越した。

「なんだ鮎か」

 ひとりで納得したように黒川主はつぶやいた。

「綾子、いるかね」

 慣れ慣れしい様子で、綾子の部屋へ入った。

 智応が籠から出てきたのは、ふたりがまた痴態をくりひろげてからである。

 いつものように、忠輔の身体は動かないが、さすがに智応は動けるようであった。

 忠輔が見ていると、智応は綾子の部屋に忍び入って、懐から短い刀を取り出した。

 それに気づかぬ様子で、黒川主は綾子を犯している。

 黒川主の黒い尾が、ばたんばたんと床を打っている。

 智応は、握っていた短刀の刃先を下に向け、その尾を、いきなり床に貫きとめていた。

 ごう、

 と獣の声をあげて、黒川主が跳びあがった。

 しかし、尾が床に貫きとめられているため、いくらも跳びあがれずに床に落ちた。

 智応は、懐から縄を取り出して、たちまちにして、黒川主を縛りあげてしまった。

 忠輔が動けるようになったのはその時である。

「綾子──」

 駆け寄った。

 しかし、綾子は、犯されていた姿勢のまま動こうとしない。眼を閉じていた。

 小さく鼾をかいていた。

 綾子は、まだ眠っていたのである。

「綾子」

 忠輔が言っても、綾子は眼を覚まさない。

 仰向けになって眠り続けている。

「妖物は捕えましたぞ」

 智応が言った。

「ううぬ。たぶらかしたかよ、忠輔──」

 黒川主はそう呻《うめ》いて、歯をがちがちと鳴らした。

「綾子が眼を覚ましません」

 忠輔は、智応に言った。

「どれ」

 黒川主を柱に縛りつけておいて、智応が綾子の前まで歩み寄った。

 智応は、手をあてたり、あれこれ呪文を唱えてみたりするのだが、綾子は仰向けになったまま起きようとしない。

 それを見ていた黒川主が、声をあげて笑った。

「起こせるものか。その娘を眼覚めさせることができるのは、我のみよ」

 言った。

「申せ、その方法を」

 智応が言った。

「言えぬわ」

 黒川主が言う。

「申せ」

「縄を解いたら教えてやろう」

「解いたら逃げる気であろう」

「ふふん」

「およそ、人ではない妖物であろうが、いい加減に正体を見せたらどうだ──」

「おれはひとよ」

 黒川主が言う。

「その尾はどうした」

「どうもこうもない。油断さえしなければ、このおれは、おまえなどにこんな目に会わされる|もの《ヽヽ》ではないのだぞ」

「しかし、捕えられた」

「ふん」

「娘を起こす方法を言え」

「縄を解け──」

 そういう会話が、朝まで続いた。

「言わねば、眼をえぐる」

「ふん」

 言った黒川主の左のめだまに、いきなり智応の短刀が差し込まれて、ぐるりと一回転した。

 黒川主が、また獣の声をあげた。

 しかし、それでも黒川主は言わなかった。

 ──夜が明けた。

 陽《ひ》が昇って、窓から陽光が差してきた途端に、黒川主の言が小さくなった。

 陽光が嫌いらしいと、黒川主は外に引き出され、樹の幹にあらためて縛りつけられた。

 幹に縛った縄に余りがあるため、つながれた犬のように、黒川主は、その縄の余りの分だけ自由に動くことができる。

 しばらく陽光を浴びているうちに、黒川主の元気が、みるみるうちに、失くなってゆく。

「わかった」

 やがて、黒川主が言った。

「娘を起こす方法を教える。だから、水を一杯もらえまいか」

 黒川主が、必死の眼で智応と忠輔を見た。

「水をやれば言うか」

 智応が言う。

「言う」

 黒川主が答える。

 忠輔が、茶碗に水を入れて持ってくると、

「違う違う」

 黒川主が言った。

「もっと大きなやつだ」

 忠輔は次に手桶に水を入れて持ってきた。

「まだまだ」

 黒川主が言う。

「おまえ、何をたくらんでいる?」

 智応が言った。

「何もたくらんではおらん。それともおまえ、こんな姿になっているおれに、水をやるのが恐いのか──」

 黒川主が、智応を蔑《さげす》むような眼で見た。

「水をくれねば、女は眠ったまま死ぬるぞ」

 智応が黙った。

 忠輔は、ひと抱えもある桶を持ち出してきて、それを地面に置いて、その中に手桶で水を汲《く》んで入れた。

 水がいっぱいになった。

 黒川主は、きらきらとした眼で、その水を見つめ、顔をあげた。

「水をもらう前に教えてやる。こっちへ来い」

 黒川主が言った。

 智応が、数歩、黒川主に歩み寄った。

「ふーっ」

 その瞬間に、ぴょんと、いきなり凄い速さで黒川主が跳びあがった。

「おう」

 と智応が身を引いた。

 余った縄の長さをいっぱいに伸ばしても、ぎりぎりでとどくまいと思えるあたりであった。

 ──と。

 信じられないことがおこった。

 宙で、黒川主の頸《くび》が、するりと倍以上の長さに伸びていたのである。

 ぞぶり

 と、黒川主が智応の首に噛みついていた。

 肉を噛み切って、かつん、と歯が鳴った。

「あなや」

 と忠輔が叫ぶのと同時に、しゅう、と智応の首から血がほとばしった。

 黒川主が、忠輔を振りかえった。

 獣の顔になっていた。

 顔に、細かい獣毛がびっしりと生えていた。

 片眼が潰《つぶ》れて、そこから血が流れ出ている。獣は、その口に、桃色の肉片を咥えていた。智応の喉から噛み切った肉であった。

 黒川主は、そのまま数歩走り、桶にはった水の中に頭から跳び込んだ。

 ざぶりと水しぶきがあがった。

 黒川主の姿が消えていた。

 きれいに澄んだ桶の水が揺れ、その表面に、さっきまで黒川主を縛っていた縄と、智応の喉の肉片が浮いているばかりであった。


     五


「凄い話だな」

 晴明が言った。

「だろう」

 博雅は、興奮を押し殺した声で言った。

「で、その方士はどうなった?」

 晴明は訊いた。

「いや、やっと一命はとりとめたものの、しばらくはどこへも動けぬそうだ」

「娘の方は?」

「まだ眠ったままでな。夜に、黒川主が訪ねてきた時だけは、眼を覚まし、睦《むつ》みおうた後には、また眠ってしまうそうだよ」

「ふうん」

「で、晴明よ、これはひとつ、おまえの力でなんとかならぬものかな」

「なるもならぬも、出かけてみねばわかるまいが──」

「おう」

「さっき、もろうた鮎を喰ってしまったしな」

 晴明は、庭の闇に眼を向けている。

 ひとつ、ふたつの螢が、その闇の中を飛んでいる。

「ゆくのか?」

 博雅が晴明に訊いた。

「ゆく」

 晴明が答えた。

「ひとつ、このおれも、方士どのにあやかって、その妖物を縛ってみるかな──」

 螢を見ながら、晴明は、その唇に微笑を浮かべていた。


     六


「こんなものかよ」

 晴明は、その桶をしげしげと眺めてつぶやいた。

「どうするのだ。そんなことをして──」

 博雅が訊いた。

 そんなこと、というのは、今、晴明がやり終えたばかりのことを言っているのである。

 晴明は、自分の髪を何本か抜き、それを結んで長くしたものを、ひと巻きほど桶に巻きつけて縛り終えたところであった。

 そういうことをして、どうするのかと、博雅は問うているのである。

 晴明は、小さく微笑するばかりで答えない。

 鴨川に近い、忠輔の家であった。

 家のすぐ先にある土手を越えて、川の瀬音がここまで届いてくる。

「さて、これであとは夕刻を待つばかりだな」

 晴明は言った。

「本当によいのか」

 博雅はまだ心配そうである。

「家の中へ入れておいて、いきなりこいつでひと太刀あびせる方が、てっとり早いのではないか」

 博雅は、腰に差した太刀に手をかけた。

「まあ、まてよ、博雅。もしそれで妖物を殺せたとして、眠っている娘をもとにもどせぬでは、たまらないではないか」

「ううむ」

 唸って博雅は、太刀から手を放した。

 どうにも凝っとしていられぬ性格であるらしい。

「なあ、晴明よ、何かおれにできることはないか」

「ないな」

 あっさりと晴明が言う。

「ちぇ」

 博雅は不服そうである。

「じきに夜になるから、そうなったら籠の中で見物でもしていればよい」

「わかったよ」

 と、博雅が答えた時には、陽は、西の山の端に沈みかけていた。

 ごおっ、と暗い風が吹いて、夜になった。

 博雅は、伏せた籠の中に身を隠して、さっきから太刀の柄を握りしめたままであった。

 その手が、じっとりと汗ばんでくる。

 籠の周囲に、晴明がなすりつけていった鮎のはらわたの匂いが、博雅の鼻にとどいてくる。鮎の匂いは嫌いではないが、こうしてそのはらわたの匂いを嗅ぎ続けるのはたまらなかった。

 それに暑い。

 身のまわりを、こうやって竹で囲われただけで、こうまで暑いとは思わなかった。全身に湯のような汗をかいていた。

「こんな、あの方士と同じようなやり方でいいのか」

 博雅は、籠の中に入る前に訊いた。

「だいじょうぶさ。人も動物も、同じ嘘で二度までは騙《だま》されるものだからな」

 晴明は言った。

 だから、籠の中に入ったのである。

 子の刻をまわった頃、ほとほとと、戸を叩く者があった。

「親父どの、開けて下され」

 声がした。

 忠輔が、戸を開けると、黒川主が入ってきた。

 黒い狩衣姿は相変わらずであったが、左眼は潰れたままである。

 入ってくるなり、鼻をひくつかせた。

「ははあ──」

 ぞくりとするほど、その唇が吊りあがった。

「親父どの、また、どこぞの方士でも呼ばれましたか」

 唇の端から、鋭い歯が覗いた。

 それを聴いて、博雅は、太刀を握りしめた。

 ──晴明め、二度は騙せると言うたくせに。

 博雅は、覚悟を決め、黒川主が近づいてきたら、いきなりひと太刀あびせようと、浅く籠の中で刃を抜いて身構えた。

 小さな灯り皿の灯りで、入口に立った黒川主が、自分の方を見ているのがわかる。

 その横に、小さな女童《めのわらわ》が立っている。

 眼が合った。

 しかし、黒川主は近づいてこようとしない。

 ならばこちらの方からと籠を跳ねのけようとしたが、身体が動かない。

「動くなよ。綾子と睦《むつ》みおうた後で、ゆっくりと始末をしてやろう」

 黒川主が言った。

 そのままずいと、綾子の部屋に入って行った。

「綾子……」

 夜具の横に膝を突いた時、夜具の下からすっと白い手が伸びて、黒川主の手を握った。

 凄い力だった。

「なんとする」

 黒川主が、その手を振りほどこうとした時、夜具が跳ねのけられた。

「大人しくしなさい」

 涼しい声で言い、夜具の下から姿を現わして立ちあがったのは、晴明であった。

 晴明の右手が、黒川主の手を握っているのであった。

「むう」

 黒川主が逃げるより先に、その首に、くるりと縄が巻きついた。

 その縄が、強く黒川主の首を締めつけた。

 次に手首に縄がからみつき、気がついた時には、黒川主は、晴明によって縛りあげられていた。

「黒川主さま」

「黒川主さま」

 女童が、主人の名を呼びながら飛び跳ねている。晴明はその女童も捕え、縛りあげた。

 晴明は忠輔の所まで歩いてくると、額に右手をあてた。

 すっと、額から冷たい水のようなものが晴明の手の中に流れ込んでくる気配があって、次の瞬間には、もう忠輔は動けるようになっていた。

「どうした、博雅」

 晴明が、籠を持ちあげる。

 片膝を突いて、右手に太刀の柄を握っている博雅の姿があらわになった。

 博雅の額に晴明が右手をあてると、博雅の動きがふいに自由になった。

「ひどいな、晴明よ」

 博雅は言った。

「だいじょうぶと言ったではないか──」

「確かに言ったが、しかしあれは嘘だったのだ。すまん。許してくれ」

「嘘?」

「おまえの方に、黒川主の注意を向けておき、その間に黒川主を捕えるつもりだったのだ。おかげでうまくいったよ」

「ちっともうまくはない」

「すまん」

「ちぇ」

「許せ、博雅──」

 くったくなく微笑しながら、晴明は言った。


     七


「水をもらえぬか」

 黒川主がそう言ったのは、陽が中天にさしかかる頃であった。

 前と同じ樹に、黒川主は縛られていた。

 陽が昇り出した頃から、黒川主は舌を出してあえぎ出した。

 服を脱ぐまえであったので、黒い狩衣を着たままである。

 その上に、夏の陽差しがふりそそいでいるのである。

 ただでさえ暑いのに、縛られて、黒い服を身につけていたのではなおさらであった。

 見てもわかるくらいに、黒川主の肌が乾いている。

「水か」

 晴明が言う。

「おう、もらえるか」

「やれば、綾子を起こす法を教えるか」

 晴明は、薄い白の狩衣をふうわりと身につけ、木陰に座して、美味《うま》そうに冷たい水を口に含みながら、黒川主を眺めている。

「教えるとも」

 黒川主が言った。

「よし」

 晴明が言うと、忠輔が、碗に水を入れて持ってきた。

「違う、違う、もっと大きな入れものに入れてきてくれ」

 黒川主が言う。

「ほう」

 晴明が笑ってつぶやいた。

「では、桶がよろしかろう」

 晴明が言うと、忠輔が、大きな桶を抱えてきて、黒川主の前にそれを置いた。

 手桶で、堀から水を汲み、大きな桶の中に注《そそ》ぎ入れる。

 ほどなく、桶は水でいっぱいになった。

「では、水をいただく前に教えよう。こっちへ来てくれ」

 黒川主が言った。

「そこでよい。そこで言えば聴こえる」

「他の者に聴かれるのはこまるのだ」

「聴かれてもおれはいっこうにかまわぬがな」

 晴明は涼しげに言って、竹筒に入れた水を、美味そうに喉を鳴らして飲む。

「来ねば教えぬぞ」

「そこで言え」

 晴明は、あくまでも落ち着いている。

 近くに水を眼にして、黒川主の眼がぎらついている。

 狂気の色さえ、その眼の中にはあった。

「ああ水だ、水だ。早く水の中に入りたい……」

 黒川主がつぶやく。

「遠慮をするな」

 晴明が言う。

 ついに、黒川主があきらめた。

「せっかく、おまえの喉を喰いちぎってやろうと思うたによ」

 赤い口を、ぱっかりとあけて、くやしそうに笑った。

 いきなり、頭から水の中に跳び込んだ。

 しぶきがあがった。

 桶にはった水の上に、黒川主の黒衣と、縄が浮いているばかりであった。

「どうしたのだ」

 博雅は、桶に駆け寄った。

 水の中から、縄と、黒い、濡れた狩衣とを拾いあげた。

「消えてしまったぞ」

「消えはしないさ。在様《かたち》を変えただけだ」

 言って、晴明が博雅の横に並んだ。

「まだこの中にいる」

 晴明は言った。

「え」

「おれが、髪で、気《ヽ》を変じて抜け出せぬよう結界を張ってあるから、まだこの中だ」

 晴明は、呆然として、ふたりを見つめている忠輔に視線を向け、

「鮎をもらえぬか──」

 短く言った。

「それと、糸を」

 忠輔が、言われたものを持ってきた。

 鮎はまだ、手桶の中で生きている。

 晴明は、桶の上の木の枝に糸をかけ、その糸に、まだ生きている鮎をぶら下げた。

 鮎が、ぶら下げられて、身をくねらせて宙で踊った。

 鮎の真下に、黒川主が飛び込んで消えた、桶がある。

「どうするのだ、晴明よ」

 博雅が言った。

「待つ」

 晴明は言って、そこに胡座をかいて座った。

「鮎を、たくさん用意しておいてもらえるか」

 晴明が、忠輔に言った。

 忠輔が、十数尾の鮎を、手桶に入れて持ってきた。

 博雅と、晴明が、黒川主の消えた桶をはさんで、向かいあって座っている。

 桶の上に吊るされていた鮎が動かなくなり、乾いてきた。

「次だな」

 晴明は言って、糸に縛っていた鮎をはずして、次の鮎とかえた。かえたばかりの鮎は、桶の上で、身をくねらせて踊った。

 晴明は、糸からはずしたばかりの鮎の腹を指で裂き、鮎の血をひとしずく、桶の水の中に落とした。その瞬間、ざわり、と水面が泡だち、すぐにまた静かになった。

「おい晴明、今のを見たか」

 博雅が言う。

「見たさ」

 晴明は微笑している。

「もうじきだ。そういつまでも我慢できるものではない」

 つぶやいた。

 刻が過ぎ、陽が中天を過ぎて傾きかけていた。

 博雅は、いささかうんざりした顔で、桶を眺めていた。

 晴明は、立ちあがって、七尾目の鮎を上から吊るした。

 鮎が、水面の上方できらきらと陽光を受けて跳ねた。

 その時であった。

 桶の水が、動き出していた。

 ゆるく渦を巻いている。

「見ろ」

 博雅が言った。

 渦の中心が、普通であればへこむのに、逆に盛りあがっている。

 その盛りあがった水が、たちまち黒く濁《にご》っていった。

「来たぞ」

 晴明がささやいた。

 その黒い濁りが、たちまち濃さを増して、ふいに、そこから、黒い一匹の獣が跳ね出てきた。

 その獣が、宙の鮎に噛みついた瞬間、晴明が右手を伸ばした。

 獣の首を、ぐいとつかんでいた。

 きい

 きい

 と、その獣が、鮎を口に咥えたまま鳴いた。

 それは一頭の、歳経た獺《かわうそ》であった。

「これが、黒川主どのの正体よ──」

 晴明が言った。

「おお」

 声をあげたのは、忠輔であった。

 獺が、忠輔を見、鮎を口から落として、

 ぎいっ

 と哭《な》いた。

 ぎいっ

 ぎいっ

「これに覚えがありますかな?」

 晴明が、忠輔に向かって言った。

「あります」

 忠輔がうなずいた。

「どのような?」

「実は、前々から、ある獺の一家が、この堀の魚を荒らして困っておりました。ふた月ほど前、偶然に、河で獺の巣を見つけ、そこにいた一頭の雌の獺と、二頭の子供の獺を殺したことがございました──」

「ほう」

「その一頭は、その生き残りであろうと思います」

 忠輔がつぶやいた。

「やはり、そのようなことがあったか」

 晴明が言った。

「さて、問題は、眠り続けている綾子どののことだが──」

 晴明は、獺を持ちあげ、自分と同じ高さに顔を持ちあげて、

「あの娘の腹の中の子は、おまえの子か──」

 訊いた。

 獺が、こくんと首を前に落とした。

「おまえも、自分の子であれば、可愛いであろう?」

 また獺がうなずいた。

「娘を眼覚めさせるのはどうしたらよい?」

 訊いて、獺を見た。

 獺は、晴明の前で、しきりと口を動かして何事か言っているようであった。

「なるほど、あの女童か」

 晴明が言った。

 女童というのは、昨夜、黒川主が、供の者として連れてきた女の子のことである。

「女童がどうしたって?」

 博雅が訊く。

「女童の|きも《ヽヽ》を喰わせれば、よいのだそうだ」

「え」

「女童を連れてこいよ、博雅──」

 家の中に、昨夜、黒川主と一緒にとらえた女童がいるのである。

 博雅がその女童を連れてきた。

「その娘を、水の中へ浸《つ》けてみな」

 晴明が言った。

 博雅が、女童を抱え、足先からその水の中につけていった。足首が全部没する間もなく、すっとその女童が水に溶けた。

 水の中に、一匹の、大きなカジカが泳いでいた。

「しかし、大変だな」

「何がだ、晴明。このカジカの|きも《ヽヽ》を喰わせればいいのだろう」

「そっちのことではない。子供の方のことだ」

 晴明は言った。

「なに?」

「およそ六十日で、獺の子は生まれるというからな」

 その時、家の中から、女の呻く声が聴こえてきた。

「むう」

 忠輔が家の中へ飛んで帰り、やがてもどってきた。

「綾子が産気づいたようでございます」

「|きも《ヽヽ》はあとだ。眠っているうちの方がよい」

 晴明は獺の首を押さえていた手を放した。

 しかし、獺は、地に降りても逃げようとしない。

 晴明は家の方に向かって歩きながら、博雅を振り返った。

「来るか、博雅よ」

 晴明が言った。

「手伝うことがあるのか」

「ない。ないが、見たくば来てもよい」

「いや」

 博雅が答えた。

「よし」

 晴明がひとりで家の中へ入った。

 その後に続いて、獺が家の中に入った。

 一刻ほどして、晴明がもどってきた。

「すんだぞ」

 短く言った。

「すんだ?」

「生まれたのを、裏から出て川へ流してきた。運がよければ、生きのびるかもしれぬ」

「黒川主どのは?」

「子と共に川を流れて行ったよ」

「しかしまあ、人が、獺の子を生むのか」

「あり得ることであろうよ」

「何故だ?」

「どちらでも同じという呪の話を、昨夜したろうが──」

「───」

「人の因果も、獣の因果も、根本は同じものよ。それにかけられている呪が違うから、普通は人と獣の因果は交わらない」

「うむ」

「しかし、その因果に同じ呪をかければ、あるいはそのようなこともあるだろうな」

「とんでもないことだな」

 博雅は、どこか非常に感心した風にうなずいた。

「しかし、よかったな、博雅」

 晴明が言った。

「何がだ?」

「|あれ《ヽヽ》を見なくてよ」

「あれ?」

「人の因果と獣の因果の間に生まれた子をさ」

 晴明が、一瞬、小さく眉をひそめて言った。

「うん」

 素直に、博雅がうなずいた。

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   蟇《ひき》



     一


「すごいな──」

 博雅《ひろまさ》は、さきほどから、酒をひと口飲んでは溜め息をつき、感に堪えない声をあげている。

「よい話ではないか」

 腕を組んで、ひとりでうなずいている。

 場所は、安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷の縁である。

 左右の直衣《のうし》の袖《そで》に、太い腕を差し込んで、胡座《あぐら》をかき、博雅はなにごとかしきりと感心しているのであった。

 |源 《みなもとの》|博雅 《ひろまさの》朝臣《あそん》が、安倍晴明の屋敷を訪れたのは、半刻ほど前であった。

 いつもの通りに、腰に太刀を帯び、供の者も連れずに、ふらりと姿を現わしたのだ。茫々《ぼうぼう》とした庭を通り、戸口をくぐって、

「おい、いるか、晴明よ」

 声をかけた。

 すると、

「はい」

 しんと静まった屋敷の奥から声があがった。

 女の声であった。

 中から、しずしずとした足取りで、歳の頃なら、二十三、四ばかりの、髪の長い色白の女が出てきた。みっしりと、重い唐《から》衣裳《ころも》を身にまとった女だった。

 重そうな衣《きぬ》を身にまとっているのに、どこか足取りに重さがなく、たよりなげだ。わずかな風にも飛ばされてしまいそうだった。

「博雅さま──」

 女は、赤い唇で博雅の名を口にした。

 初めて会うのに、すでに女は博雅の名を知っているらしい。

「先ほどから、主《あるじ》の晴明がお待ち申しあげております」

 女に案内されて、博雅は、その縁に通されたのだった。

 そこは、部屋の外側に設けられた、廊下であった。屋根はあるが、雨戸はない。そのまま、雨風に吹きさらしになっている場所だ。

 晴明は、そこで、無造作に胡座をかき腕を組んで壁に背をあずけ、庭に眼をやっていた。

 野の草が伸び放題になっている庭であった。

 そこに案内され、振り返ってみれば、今までそこにいたはずの女が、もう姿を消している。

 ふと、後方の部屋の方へ眼をやると、そこに屏風《びようぶ》があって、女の姿が描かれている。よく見ると、その女が、今しがたまでそこにいた女に、面影が似ているようであり、似ていないようでもあり──

「ふうむ」

 博雅は、その女の姿に見とれていた。

 長月──太陰暦の九月の七日。

 太陽暦では、八月の上旬である。

 博雅の顔は、やや赤みを帯び、眼が光っていた。

 軽い興奮が、この男を包んでいるらしかった。

「どうした、博雅?」

 庭にやっていた眼を、博雅に向けて、晴明が言った。

 博雅は、我に返った顔つきになり、その絵について何か言いたそうに口を開きかけたが、それをやめ、

「いや、晴明よ、実は今日、清涼殿《せいりようでん》で実に趣《おもむき》のある話を耳にしたのでな、それをおまえに言いたくて、やってきたのだ」

 本題に入っていた。

「趣のある話?」

「そうだ」

 博雅が答える。

「どんな話だ」

「あの蝉丸《せみまる》法師どのの話よ」

「おう、あの蝉丸どのか──」

 晴明は言った。

 晴明も、蝉丸のことは知っている。

 昨夜、博雅とともに、顔を合わせている。

 盲目の琵琶《びわ》法師であった。

 博雅の琵琶の師ともいうべき人物である。

 この博雅、無骨《ぶこつ》な武士のくせに、琵琶の道に通じていて、自分でも弾《ひ》く。

 蝉丸のもとに、三年通いつめて、秘曲である流泉《りゆうせん》、啄木《たくぼく》を学んだこともある。

 その縁で、昨年、紫宸殿《ししんでん》から盗まれた玄象《げんじよう》という琵琶を、異国の鬼から取りもどしたおり、晴明と蝉丸は顔を合わせているのである。

「その蝉丸どのがどうしたのだ」

「いや、蝉丸どのは、まことに、琵琶の名人であられることだな、晴明よ──」

「おう、あの昨年の玄象のことか」

「いやいや、ついひと月ばかり前のことさ──」

「ほう」

「この蝉丸法師どのが、近江《おうみ》のあるお屋敷に呼ばれてな──」

「琵琶でも弾きにゆかれたか──」

「いや、そうではない。弾くことは弾いたのだがな。そのお屋敷の主というのが法師どのの知りあいでな、その方が、なんぞの用事を造って、蝉丸どのを呼んだのよ」

「ははあ──」

「しかし、屋敷の主どのは、本当はその用事のために、蝉丸どのを呼んだのではなくてな、目的は別のところにあったのだ」

「どんな目的だ?」

「その主どのの知人に某《なにがし》というのがいて、その男が、実はたいへんに琵琶を能《よ》くするということでな、その男の琵琶の腕がどれほどのものか、蝉丸どのに聴かせてみようと主がはかったのよ」

「ほほう」

「某というのが、主に頼んだというわけなのだが、しかし、晴明よ。そうはいうても、蝉丸どのは、そのようなことをわざわざされるお方ではない──」

「それで、別の用事で、蝉丸どのを呼んだというわけか──」

「そうよ」

「で──」

「でな。ひと通りの用事が済んだおりにな、ふいに、隣の部屋から琵琶の音が聴こえてきたというわけさ……」

「なるほど、そういうことか」

「ああ。さて、しばらくその琵琶の音に耳を傾けておられた蝉丸どのだが、やがて、おもむろに、横手に置いてあった御自分の琵琶に手を伸ばされてな、それを弾き始めたのよ──」

「ふむ」

「聴きたかったなあ、晴明よ。その時、蝉丸どのが弾いたのが、秘曲の寒桜さ──」

 無骨な博雅が、眼をうっとりとさせて、言った。

「で、どうなったのだ?」

 晴明が、訊く。

「それがな、蝉丸どのが、琵琶を弾き始めてほどなくすると、隣の部屋から響いていた琵琶の音がふいにやんでしまったのだよ──」

「なるほど」

「どうしたことかと、主が、人に隣の部屋まで様子を見にゆかせると、そこにいたはずの琵琶を弾いていた某という者がいなくなっている。そこへ屋敷の門番の者がやってきて、今しがた、さっきまで琵琶を弾いていた某という男がやってきて、望みは果たしましたと言い残し、家を出て行ったのだという……」

「ほう……」

「皆わけがわからない。部屋へ戻って、どうしたのかと問うても、蝉丸どのは、微笑するだけで答えない。琵琶を弾いていた某の後を追わせて問うても、やはり何も答えない。その理由がわかったのは、しばらく後になってからさ──」

「どんな理由だ?」

「まあ聴けよ、晴明。その蝉丸どのがいよいよ帰ることになった、その前の晩のことだがな──」

「おう」

「その日、主と蝉丸どのが出かけたのが、主の知り合いの、公家の血筋をひくという者の屋敷だったのだが、そこでも似たようなことがおこった」

「公家の血筋をひく者というのが、誰ぞの琵琶を弾く者を呼んで、別室で弾かせたか?」

「そうなのだよ、晴明。その公家の血筋をひいているという者が、数日前のできごとを耳にしていてな、そのような手筈《てはず》をととのえていたのさ」

「うむ」

「はじめはよもやまの話をしていたのだが、やがて、夜になると、はたして、琵琶の音が聴こえてきた。しかし、蝉丸法師どのは、わずかに耳を傾けるような仕種《しぐさ》をしただけで、その琵琶については何も言わない。横に置いてある御自分の琵琶を弾こうともなさらない──」

「ふむ」

「でな、その公家の血筋をひく者というのが、痺《しび》れをきらせて、蝉丸どのに問うたというわけだな」

「何と問うた?」

「法師どの、この琵琶を何と聴きますか、とそう問うた」

「うむ」

「蝉丸どのが答えて言うには、聴いた通りのものでございますよと──」

「で?」

「公家の血筋をひくという者はなおも問うた。もしここで、法師どのが琵琶をお弾きになれば、なんとなりましょうかとな──」

「───」

「なんともなりますまい──蝉丸どのはそう答えた」

「───」

「琵琶の音はやむかと問うと、やまぬでしょうと蝉丸どのは答える」

「ほほう」

 晴明は、興味深そうに眼を光らせた。

「試しに弾いてみてはと、しつこく勧められてな、それでついに蝉丸どのが琵琶を弾いたのだが──」

「どうだった?」

「向こうから聴こえてくる琵琶の音はやまず、さらに三曲ほどを弾き終えて、ようやくその音はやんだ……」

「なるほど」

「納得のいかないのが、蝉丸どのを近江へ呼んだ主どのでな。その家を辞してから、先夜聴いた琵琶と、今夜耳にした琵琶と、どちらの器量が勝《まさ》っているのかと蝉丸どのに問うたわけだが──」

「うむ」

「蝉丸どのは、微笑して首をふるばかりで答えないのさ。で、そのまま蝉丸どのは帰ってしまわれたというのだが、晴明よ、おぬし、これをどうみる?」

 博雅が、訊いてきた。

「なんだ、おれを試すのか、博雅──」

「ああ、いつも呪《しゆ》だのなんのと、おまえにややこしいことばかり言われてるのでな──」

 博雅が、笑みを浮かべている。

「どうみるとは、最初に琵琶を弾いた某と、次に琵琶を弾いた者と、どちらの器量が優《すぐ》れているか、判じてみせろということか──」

「ま、そういうことだな」

「ひとつ訊くが、博雅よ。蝉丸法師どのほど、琵琶を能く弾く者が、他におると思うか──」

「まずはおるまいよ、晴明──」

 ためらわずに博雅が答えた。

「ならば、器量がどちらが上かは、はっきりしているではないか──」

「どっちなんだ」

「琵琶を途中でやめたという最初の男だな──」

「おどろいたな、晴明よ。その通りだよ」

「やはりな」

「やはりだって? どうしてそんなことがわかるんだよ。教えてくれよ──」

「つまり、ふたりとも、蝉丸どのより器量は落ちるのだろう?」

「ああ」

「ならば答は簡単ではないか」

「どう簡単なんだ?」

「最初の男が、蝉丸どのの琵琶を聴いて、琵琶を弾くのをやめたということは、名人の音を聴き、己れの腕を恥じたからであろうさ」

「うん」

「つまりは、蝉丸どのの琵琶がわかるという、それだけの器量は有していたのであろうよ。二番目の男は、蝉丸どのが、どれほどの腕か、それすらもわからず、無遠慮に琵琶を弾き続けていたのだろうな」

「いや、晴明よ、実はまさしく、その通りなのだよ」

「博雅よ、おぬしの方は、どうしてそのことを知ったのだ?」

「いや、蝉丸どのと一緒に、近江へ出かけた者がいてな。その者が、蝉丸どのがほろりとふたりの琵琶のことを洩《も》らされたのを、帰り道に、耳にしたというわけなのだよ。おれがその者から、清涼殿で話を聴いたのが、今日の昼であったというわけなのさ」

「ふうん」

「な」

 博雅は、腕を組んで、晴明を見、

「蝉丸どのは、おくゆかしい方だなあ──」

 というわけで、博雅は、しきりとひとりでうなずいては、さっきから、感に堪えない溜め息をついているのである。

「このことを、おまえに話したくてな、今夕、時間がとれたので、とりあえず出かけてきたのさ」

 博雅は言った。

「酒でも飲みたいところだが」

「うむ」

 博雅が答えると、晴明が小さく首を振った。

「──しかし、そうしたいところだが、今夜はそうもいかなくてな」

「なんだ」

「用事がある。少し前には、出かけねばならなかったのだが、今夜はおぬしが来るだろうということがわかってたんで、待ってたのさ」

「戻橋《もどりばし》の式神《しきがみ》が知らせたか?」

「まあ、そういうところであろうよ」

 この晴明が、式神を、戻橋の下に棲《す》まわせて、必要な時に呼び出しては使っているというのは、皆のもっぱらの噂である。

「どうだ、一緒に来ぬか──」

「一緒に?」

「おれが、これから出かけてゆくところにさ──」

「いいのか」

「博雅ならかまわぬさ」

「しかし、何をしにゆくのだ」

「蟇《ひき》さ」

「蟇?」

「長い話になるので、ゆくのなら、おいおい、その道すがらに、話してやろう」

 博雅に向かって言ってはいるのだが、晴明の視線は、博雅にではなく、庭の茫々とした夜の闇に向けられている。

 涼しげな眼元をした男だった。

 唇はほんのりと紅《あか》みを帯びており、甘い蜜を含んだように、微《かす》かな微笑が溜められている。

 肌の色が白い。

 晴明が、庭から博雅に視線を移した。

「博雅が来るなら、手伝ってもらいたいことの、ひとつやふたつはありそうなのさ」

「ならば、ゆこうか」

「おう」

「ゆこう」

「ゆこう」

 そういうことになったのであった。


     二


 車に乗った。

 牛車《ぎつしや》である。

 車を牽《ひ》いているのは、黒い大きな牛であった。

 長月の夜である。

 細い上弦《じようげん》の月が、猫の爪のように天にかかっている。

 朱雀院《すざくいん》の前を抜けて、四条大路を西へ折れたところまでは、博雅はわかっているのだが、それから何度か路を曲がったあたりから、どこを走っているのかわからなくなっている。だいぶあちらこちらと曲がっているようであった。

 上弦月のほそほそとした光が、天から降りてきてはいるが、月が細すぎて、あたりは真の闇に近い。

 空だけが、ぼうっと、青い光を放っているようである。青い光といっても、地上の闇に比べればの話で、とても光と呼べるほどの空の色ではない。

 大気は、ひいやりと湿っぽい。

 うそ寒いほどであるのに、肌には汗をかいている。

 長月であるから、夜とはいえ、寒いはずはないのだが、車の簾《すだれ》から入り込んでくる風が、肌にひやひやと感じられるのである。なのに汗をかいている。

 博雅には、どちらの感覚が本当であるのかよくわからない。

 輪が、ほとほとと土や石を踏んでゆく音が、尻を伝わって届いてくる。

 晴明は、さっきから腕を組んで、沈黙したままだ。

 ──不思議な男よ。

 と、博雅は思う。

 晴明と共に、晴明の屋敷の外へ出ると、門の前に、この牛車が停まっていたのである。

 供の者も誰もいない。

 牛車であるのに、牛がいなかった。

 誰が、この牛車を牽くのか──。

 博雅は、始め、そう思った。

 しかし、すぐに、博雅は気がついた。

 牛車の軛《くびき》には、すでに牛が繋《つな》がれていたのである。

 黒々とした、大きな牛であった。

 ふいに、そこにそのような大きな牛が出現したのかと、博雅は驚いたが、そうではなかった。牛が、黒い色をしているため、闇に溶けて、一瞬、それとわからなかっただけである。

 女がひとりだけいた。

 唐《から》衣裳《ころも》をみっしりと身に纏《まと》った、あの、博雅を出むかえた女であった。

 博雅と晴明が牛車に乗り込むと、みしりと牛車が重く軋《きし》んで、車が動き出したのであった。

 その時から、半刻《はんとき》は過ぎている。

 博雅は、前の簾をあげて、外を見た。

 青い、熟《う》れた樹々の葉の匂いが、夜気に溶けて、車の中に入り込んできた。

 黒々と盛りあがった牛の背が、ぼんやりと見えている。

 その先の闇の中を、唐衣裳を着た女が、先導してゆく。女の身体が、ふわふわと宙に浮いているように見える。

 風のようにたよりない。

 闇の中に、女の唐衣裳が、燐光を焚《た》き込んだように、朧《おぼろ》に光って見えている。

 美しい幽鬼《ゆうき》のようであった。

「なあ、晴明よ」

 博雅が、晴明に声をかける。

「なんだ」

「誰かが我等のこの姿を見たら何と思うかな──」

「さて、どうかな」

「都に棲む魔性のものが、まるで、幽冥《ゆうめい》界にでも帰ろうとしているのかと思うだろうよ」

 博雅が言うと、晴明が、細く、唇に微笑を浮かべたようであった。闇であるから、むろん、その微笑は見えぬが、晴明の微笑の気配が、博雅に伝わってきた。

「それが本当であれば、なんとする、博雅よ──」

 ふいに、低い声で、晴明が言った。

「おい、脅《おど》かすなよ、晴明」

「博雅も知っていようが、宮中の噂によれば、わが母は、狐であるそうな──」

 そろりと言った。

「お、おい」

「ほれ、博雅、おれが今どのような貌《かお》をしているのかわかるか──」

 博雅には、闇の中で、晴明が、鼻を狐のように尖《とが》らせているように思えた。

「嘘言《そらごと》はよせよ、晴明──」

「はは」

 晴明が笑った。

 いつもの晴明の声にもどっていた。

 ほっと息を吐いてから、

「ばか」

 太い声で博雅が言った。

「あやうく太刀《たち》に手をかけるところだったぞ」

 博雅は怒っている。

「本当か?」

「うん」

 率直に、博雅はうなずいた。

「こわいな」

「こわかったのは、おれの方だ」

「そうか」

「おまえも知っているだろう? おれは性格が真面目すぎてな。晴明が妖物《ようぶつ》とわかれば、刃《やいば》を抜いていたかもしれないんだよ」

「ふうん」

「な」

「しかし、妖物であれば、何故、刃を抜く?」

「何故って?」

 博雅が返答に困った。

「妖物だからだよ」

「しかし、妖物にもいろいろあろうが」

「うむ」

「人に禍《わざわ》いを為《な》すものも、そうでないものもあろう」

「うむ」

 博雅は、首をひねって、それから独りでうなずいた。

「しかし、晴明、どうもおれにはそういうところが、実際にありそうなのだよ」

 博雅は、真面目な口調で言った。

「うん、あるな」

「だからさ、晴明よ、おまえ、頼むからあんな風におれをからかわないでくれ。おれは時々、冗談がわからない時があってな。本気になってしまうのだよ。おれは晴明が好きなんだ。たとえ、おまえが、妖物であってもだよ。だから、おまえに刃なんか向けたくない。しかし、突然、今のようにされると、どうしていいかわからなくなって、つい、太刀に手がのびてしまいそうになるんだよ──」

「ふうん──」

「だから晴明、おまえが妖物であるにしてもだよ、おれに正体を明かす時にはだな、ゆっくりと、驚かさないようにやってもらいたいんだよ。そうしてくれるんなら、おれは大丈夫だ」

 博雅は、訥々《とつとつ》と言った。

 真剣な口調であった。

「わかったよ、博雅。悪かったな──」

 晴明が言った。

 しばらくの沈黙があった。

 輪が土を踏んでゆく音が、静かに響いていた。

 ふいに、口をつぐんでいた博雅が、また闇の中で口を開いた。

「いいか、晴明──」

 実直な声であった。

「──たとえ晴明が妖物であっても、この博雅は、晴明の味方だぞ」

 低いが、はっきりとした口調であった。

「よい漢《おとこ》だな、博雅は──」

 ぽつんと、晴明がつぶやいた。

 また、牛車の音だけになった。

 牛車は、なおも、闇のどこかへ向けて、ほとほとと進んでゆく。

 すでに西へ向かっているのか、東へ向かっているのか、それもわからなくなっていた。

「なあ、晴明よ、いったいどこへゆこうとしているのだ」

 博雅が訊いた。

「おそらく、博雅に話してもわからぬところだ」

「まさか、さっき話をした幽冥界に、本当に向かっているのではあるまいな」

「おおまかに言うならば、そのようなところかもしれぬぞ──」

 晴明が言った。

「おい、おい──」

「太刀には手をかけるなよ、博雅。それはもう少し後でよいのだからな。博雅には、博雅の役目があるのだ」

「わからないことを言う男だな。しかし、何をしにゆくかくらいは、教えてもよいだろうが──」

「そうだな」

「何をしにゆくのだ」

「応天門《おうてんもん》に、四日ほど前に、あやかしが出たのだ」

「なに?」

「聴いてはおらぬか?」

「ああ」

「実は、雨が洩《も》るのだよ、あの門は──」

 突然に、晴明が妙なことを言い出した。

「雨だって?」

「それが、昔からでな。特に、西から風の吹く雨の晩には、必ず雨が洩る。調べてみても、どこも屋根に悪い場所はないのにだ。まあ、そういうことは、よくあるのだがな」

「あやかしの話ではなかったのか?」

「まあ、待てよ、博雅。悪い場所はなくとも、雨が洩ることは洩る。それで、つい先日、そこを修理することになってな、工《たくみ》のひとりが、門にあがって、色々調べてみたのさ──」

「おう」

「調べているうちに、屋根の下に使ってある板の一枚が、妙な具合になっているのを、その工が見つけたのだ」

「どうなっていた?」

「うむ。その板というのは、一枚に見えているが、実は半分の厚さのものを二枚重ね合わせたものらしいということに気がついたのさ」

「それで?」

「その板をはずして、重ねてあった板を二枚にはがしてみるとな、その板と板との間に、一枚の札《ふだ》がはさんであった」

「どんな札だ」

「真言の書いてある札だ」

「真言?」

「孔雀《くじやく》明王の呪《ダラニ》だ」

「なんだ、それは?」

「昔から、天竺《てんじく》では、孔雀は毒虫や毒蛇を食べることで知られている。孔雀明王は、魔霊|調伏《ちようぶく》の尊神だな」

「───」

「つまり、おそらくは、高野か天台の坊主の誰かが、魔霊を抑えるために、書いてそこに隠し置いたものであろうさ」

「ほう」

「で、その工が、板から剥《は》がそうとして、その札を破いてしまってな。板をもと通りにした翌日に、西風が吹いて雨が降ったのだが、雨は洩らなかった。しかし、その晩に、あやかしが出たのだ」

「なんと──」

「雨が洩らぬかわりに、あやかしが出るようになってしまったということだな──」

「雨とあやかしと、関係があるのか?」

「まるで関係がないわけではないぞ。札を張って、あやかしを抑えることは、誰でもやることだが、それでは、|返し《ヽヽ》がこわい──」

「|返し《ヽヽ》?」

「たとえばだ、呪《しゆ》であやかしを縛るというのは、博雅を縄で動かぬように縛っておくようなものだな」

「おれをか?」

「そうだ。縛られれば、腹が立つだろう?」

「立つとも」

「それが、きつければきついほど、腹が立つであろうが──」

「うむ」

「もし、何かの加減で縄が解けたとしたら?」

「おれを縛った者を、切りにゆくかもしれないよ」

「そこよ、博雅」

「どこだ」

「だからよ、呪であまりにがんじがらめにしておくと、かえってたちのよくないものもいるということだ」

「おれのことを言われてるみたいだな」

「博雅のは、たとえさ。たちがよくないというのは、むろん、博雅のことではないぞ」

「いいから、先を続けてくれ」

「だから、呪をわずかにゆるめておく」

「───」

「堅く縛らずに、少しくらいは自由に動けるようにな」

「ははあ」

 しかし、まだ、博雅には呑《の》み込めない様子であった。

「その少し自由な分だけ、それを封じた場所に、何かささいな害があるのさ。それが、こんどのことで言えば、雨洩りということになって現われていたのだよ」

「ふうん……」

 なんとなく呑み込めた風に、博雅はうなずいた。

「で、あやかしの方はどうしたのだ」

「うん。その、翌日の晩なのだがな」

「西風と雨が降った晩だな」

「ああ。工が、雨洩りはどのような具合であるのかと、弟子をふたり連れて、その雨の晩に、応天門まで、様子を見に行ったのだよ。そうしたら、雨は洩ってはおらず、かわりにあやかしを見たというわけなのだ」

「どんなあやかしだ?」

「子供だ」

「子供?」

「そうだ。子供が、逆さに、柱にしがみついていて、工とその弟子を睨《にら》んだのだという──」

「こう、手足でか──」

「そうさ。膝と、両手でね。門の上に登ろうと、灯《あか》りを上に向けたら、柱に、それがしがみついていて、こわい眼で下を睨んでいたのだそうだよ」

 はあっ、と、上からふたりに白い息を吐きかけてきたのだという。

「へえ」

「その子供は、柱から天井を這《は》い、ぴょんと六尺以上も空中を飛んだらしい」

「小さい子供か?」

「ああ。子供は、子供でも、顔は、蟇蛙のような面《つら》をしていたらしいよ──」

「それで、さっき、蟇と?」

「うむ」

「それから、毎晩なのだよ。子供のあやかしが出るようになったのは」

「工は?」

「工は、今は、眠り込んだまま、眼を覚《さ》まさない。弟子のひとりは、熱が出て昨夜死んでしまった──」

「で、おぬしが呼ばれたか」

「うむ」

「それでどうだったのだ?」

「新しい札を張れば、なんとかはなろうが、それは一時的なものさ。うまくいったとしても、また、雨が洩るのではかなわないからな」

「で──」

「で、色々と調べてみた。あの門にかかわることをあれこれとさ。そうしたら、だいぶ昔に、似たような|もの《ヽヽ》が出たことがあったらしい」

「ふうん」

「でな、その昔に、あの門のところで、子供がひとり死んでいるのがわかった。図書寮《ずしよりよう》で調べたのだ」

「子供か──」

「うむ」

 晴明はつぶやいた。

「色々とややこしいのだな──」

 博雅は言った。

 言ったその顔を、博雅は左右の闇に巡らせた。

 さっきまで、ほとほとと地を踏んでいた輪の感触が、消えていた。

「おい、晴明よ──」

 博雅は言った。

「気づいたか」

「気づいたかって、これは、おまえ──」

 車の音もしなければ、動いている様子もない。

「博雅よ──」

 晴明が、言い聴かせるように言った。

「これから、博雅が見ること、耳にすること全《すべ》ては、夢と思うことだ。おれだって、おまえにうまく説明してやれる自信がない──」

 博雅が簾を開けようと手を伸ばすと、闇の中からすっと晴明の手が伸びてきて、博雅の手を押さえた。

「博雅よ、簾を開けるのはいいが、そこに何を見ても、簾を開けているうちは、決して声をあげるなよ。そうしたら、博雅の身を守ることもできぬばかりか、おれ自身の生命も危うくなる……」

 晴明の手が、博雅の手から離れた。

「わかった……」

 ごくりと唾《つば》を呑み込んで、博雅は、簾を持ちあげた。

 闇が、あった。

 何もない闇であった。

 月も、ない。

 土の気配も、空気の気配も、そこにはなかった。なのに、黒い牛の背だけは、はっきりと闇の中で見えている。

 その先を、ふわりふわりと唐衣裳を舞わせながら先導してゆく女の後ろ姿は、いよいよ美しい燐光を放っているようであった。

 ──と。

�おう�

 と、思わず博雅は胸のうちで声をあげていた。

 行く手の闇の中に、ぼうっ、と青白い炎が点《とも》ったかと思うと、それがふいに大きくなり、鬼の姿になったのである。

 見ているうちに、それは、髪ふり乱した女の姿になり、虚空《こくう》を睨んで、かつんと歯を鳴らした。なおも見つめようとすると、ぬらりと青い鱗《うろこ》の蛇と化して、闇の中に姿を消した。さらに見ていれば、闇の中には、無数に、ひしひしとひしめいている眼に見えぬものたちがいる。

 見えぬと思っていると、ふいに、それが見えたりする。

 人の首がふいに見えたり、髪の毛のようなもの、動物の頭、骨、はらわた、その他わけのわからぬもの。

 文机《ふづくえ》のかたちをしたもの。

 くちびる。

 異形の鬼。

 めだま。

 まら。

 そそ。

 異様なものの中を、牛車はやはりどこへやらと向かっているのである。

 小さく持ちあげた簾から、胸のむかつくような風が、そよそよと吹き寄せてくる。

 瘴気《しようき》であった。

 博雅は、簾を下ろした。

 顔が青白くなっている。

「見たかよ、博雅……」

 晴明が言うと、博雅は、こくん、とうなずいた。

「鬼火を見たよ、晴明──」

 博雅は言った。

「そうしたら、それが、鬼の姿になり、次には女になり、最後には蛇になって消えた──」

「そうか──」

 静かに晴明が答える。

「なあ、晴明よ。あれは百鬼夜行《ひやつきやこう》ではないか」

「その通りさ」

「鬼を見た時には、声をあげるところだった」

「あげないでよかったな」

「あげたらどうなっていた?」

「あやつらにたちまち、この車ごと喰われて、骨も残らぬだろうよ」

「どのようにして、こんな場所に来てしまったのだ」

「色々と方法はあるが、その中でも、簡単な方法を使った」

「どんな方法なんだ」

「方違《かたたが》えを知っているだろう──」

「知っているさ」

 博雅は答えた。

 方違えというのは、外出時に、その方向が天一神《なかがみ》のいる方角であった場合、いったん別の方向へ向かって出発し、目的地とは異なる場所で一泊し、その後に、目的の場所へ向かうことをいう。

 禍《まが》つ神《かみ》のわざわいを避けるための、陰陽道《おんみようどう》の法である。

「都の大路、小路を使って、その方違えに似たことを何度もやるのさ。それを繰り返しているうちに、ここへたどりつくことができる」

「そういうものなのか」

「そういうものなのだ」

 晴明は言った。

「で、博雅にひとつ頼みがあるのだが──」

「なんだ、晴明」

「この牛車は、言わばおれの造った結界《けつかい》で、めったなものは中には入って来れぬのだが、時おりは、中に入ってくるようなものもいる。考えてみれば、今日は、|己 酉《つちのととり》から五日目だ。天一神が、方角を移る日にあたっている。ここに入るのに、その通り道を、五度は横切っているから、そのうちに、誰ぞが見に来るかもしれぬ」

「ここへか──」

「うん」

「脅かすなよ、晴明──」

「脅かしてはいない」

「鬼が来るのか?」

「いや、鬼ではないが、鬼でもあるものだ」

「ならば人か?」

「人ではないが、博雅は人であるから、むこうに特別な意図のない限りは人の姿に見えようし、人の言葉も話そう」

「来たらどうする?」

「おれの姿は見えぬ」

「おれの姿はどうなのだ」

「きちんと、向こうには見えような」

「ならば、おれはどうなるのだ」

「どうにもなりはせぬさ。おれの言う通りにすればよい」

「どうする?」

「おそらく、やってくるのは、土《つち》の弟《と》であるから土精《どせい》であろうな」

「土の精ということか」

「説明はむつかしいから、そう思ってよい」

「それで?」

「それはおそらく、博雅にこう訊くであろうよ。人《ひと》である身が何故《なにゆえ》かような場所にいるのかとな」

「うむ」

「そう訊かれたら、こう答えればよい」

「どう答えるのだ」

「実は、先日来わたくしは辛気《しんき》を病んでおりまして、良く効く薬はないかと知人にたずねておりましたところ、本日、辛気の虫によく効くという薬草を知人からいただきました──」

「ふむ」

「それがハシリドコロという草を干したもので、それを煎《せん》じて、これほどの碗に三杯ほどいただきました。その後は、何やら、心がどうにかなってしまったようで、ここでぼうっとしております──と、そう答えるのだな」

「いいのか、それで」

「いい」

「他のことを訊かれたら?」

「何を言われても、今の同じことを繰り返すだけでよい」

「ほんとうに、それでいいのか?」

「いい」

 晴明が言うと、

「わかったよ」

 博雅が、素直にうなずいた。

 その時、ふいに、外から車を叩《たた》くものがあった。

「晴明!?」

 博雅が声をひそめる。

「言われた通りだぞ」

 晴明が言った。

 そして、すっと、簾が上に開けられて、そこから、白髪の老人の顔が覗いた。

「もし──」

 と、その老人が言った。

「人である身が、何故、かような場所にいなさるのかな」

 訊いてきた。

 博雅は、あやうく晴明の方に視線が動きそうになるのをこらえ、

「実は、先日来わたくしは辛気を病んでおりまして、良く効く薬はないかと知人にたずねておりましたところ、本日、辛気の虫によく効くという薬草を知人からいただきました……」

 晴明に言われたことを、正確に言った。

「ほう……」

 老人は、ぎろりと大きなめだまを動かして博雅を見た。

「それがハシリドコロという草を干したもので、それを煎じて、これほどの碗に三杯ほどいただきました。その後は、何やら、心がどうにかなってしまったようで、ここでぼうっとしております──」

「ふうん……」

 老人は、首を、少しばかり傾けてみせ、

「ハシリドコロをな──」

 博雅を睨む。

「それで、魂がかようなところで遊んでおるのか」

 大きなめだまが、さらに動く。

「ところで、天一神《なかがみ》の通り道を、今日、五度ほど横切っていった者があるらしいのだが、よもや、おまえではあるまいな」

 言った老人の口が、かっ、と開いてぬうっと伸びた黄色い歯が見えた。

「ハシリドコロをいただいてから、心がぼうっとなっており、なにがなにやらわかりません……」

 博雅は言った。

「ふうん」

 老人は唇を尖らせて、ふうっ、と息を博雅に吹きかけた。

 土臭い匂いが、博雅の顔に吹きかかってきた。

「ほう、これで飛ばぬのか……」

 老人は、小さく歯を見せて、

「よかったな三杯で。四杯飲んだら、もどれぬところじゃ。わが息で飛ばぬのなら、いずれ、一刻もすれば、魂はもどれようさ」

 言った。

 言った途端に、ふっと老人の姿が消えていた。

 あがっていた簾が、もとにもどって、車の中には、博雅と晴明がいるばかりである。


     三


「いや、晴明よ、凄いな」

 博雅が言った。

「何がだ」

「おまえの言った通りにしたら、帰って行ったよ──」

「それはそうさ」

「あの爺さんが、土精か」

「そのような神《もの》だ」

「しかし、たいしたものだな、晴明よ」

「喜ぶな。まだ、帰りが残っているからな」

「帰りか──」

 博雅が言った。

 博雅は、そう言い終えた唇のかたちを残したまま、ふと、耳を澄ませていた。

 車が、土や石に触れて、小さく鳴る音が身体にもどってきていたからである。

「おい、晴明──」

 博雅が言った。

「博雅にもわかったか」

 晴明が、言った。

「わかったさ」

 博雅が言う。

 そういうやりとりをしている間にも、牛車は前へ進み、いつか、動かなくなっていた。

「どうやら着いたらしい」

 晴明が言った。

「着いた?」

「六条大路の西のはずれあたりさ」

「ならば、もどってきたのか」

「もどってはいない。我等はまだ陰態《いんたい》の内《うち》だからな」

「陰態だって?」

「この世の|もの《ヽヽ》ならぬ世界と思えばよいさ」

「どこだ?」

「尾張義孝《おわりののりたか》という者の屋敷の前さ」

「尾張義孝?」

「あの、子供のあやかしの父の名だ──」

「なんだって?」

「いいか、博雅よ。これから外へ出るが、そうしたら、おまえはひと言も口を利《き》いてはいけないぞ。何かしゃべったら、そのまま生命を落とすことになるかもしれぬ。それができぬのなら、牛車の中で、おれを待っていることだ」

「せっかくここまで来て、それはないよ、晴明。黙っていろというなら、はらわたを犬に啖《く》われたって、黙っているさ」

 本当に、はらわたを犬に啖われながらでも、博雅は黙っていそうであった。

「よし」

「よし」

 そうして、博雅と、晴明は、牛車を降りたのだった。

 降りると、大きな屋敷の前であった。

 中天に、上弦の月が出ていた。

 唐衣裳を着た女が、静かに、黒牛の前に立って、ふたりを見ていた。

「行ってくる、綾女《あやめ》──」

 晴明が、女に声をかけると、綾女と呼ばれた女が、静かに頭を下げた。


     四


 まるで、晴明の屋敷の庭のようであった。

 雑草が、庭中を埋め尽くしている。

 風が吹く度に、さわさわと、草が揺れ、互いにその身を触れ合わせる。

 晴明の屋敷と違っているのは、門の内側は庭ばかりで、そこには、家がなにもなかった。わずかに、家があったらしいあたりに、焼け焦《こ》げて炭になった木が、転がっているだけである。

 博雅は、歩きながら、驚いていた。

 草の中を歩くのに、草を分けずともよいのだった。踏んでも草は倒れない。

 自分の脚の中で、草が風に揺れているのである。

 自分か、草か、どちらかが、空気と同じような存在になってしまっているらしかった。

 ゆくうちに、先頭を歩いていた晴明が立ち停まった。

 その理由が、博雅にはわかった。

 前方の暗がりの中に、誰か、人影が見えるのである。

 それは、確かに人影であった。

 ふたりだ。

 男と女であった。

 しかし、それをよく見た博雅は、危うく、また声をあげそうになった。

 そのふたりとも、首がなかった。

 ふたりは、その自分の首を両手に抱えて、さっきから、際限のない会話を繰り返しているのだった。

「くやしや……」

「くやしや……」

 ふたりは、その言葉を、何度も何度も繰り返していた。

「あんな蟇《ひき》を見つけたばかりに──」

「あんな蟇を見つけたばかりに──」

「我等はこんな姿になったのじゃ」

「我等はこんな姿になったのじゃ」

「くやしや……」

「くやしや……」

「竹などで刺さねばのう」

「竹などで刺さねばのう」

 ひとりは、男で、もうひとりは、女であった。

 細い声であった。

「さすれば、多聞《たもん》は生きていたろうに」

「さすれば、多聞は生きていたろうに」

 腕に抱えた首が、きりきりと、歯を鳴らす。

 どうやら、多聞というのが、その首のないふたりの子供であるらしい。

 晴明は、すっとふたりの横手に立った。

「それは、いつのことであったろうな」

 晴明が訊いた。

「おう」

「おう」

 ふたりが、声をあげる。

「それは、今より百年ほども前のことよ」

「それは、清和天皇さまの御世《みよ》のことよ」

 ふたりが言った。

「貞観《じようがん》八年、応天門が焼けた年であったな」

 晴明が言うと、

「そうよ」

「そうよ」

 ふたりが恨めし気に声をあげる。

「ちょうどその年であったわなあ」

「ちょうどその世であったわなあ」

 ふたりが手にした首の眼から、さめざめと血の涙があふれ出した。

「何があった?」

 晴明が訊いた。

「息子の多聞が──」

「六歳の多聞が──」

「ほれ、そこのところで、一匹の蟇《ひき》を見つけたのよ」

「大きな、歳経《としへ》た、蟇であったわいなあ」

「多聞は、その蟇を、持っていた竹の棒で、地に貫きとめてしもうての」

「わしらが、それを知ったのは、その後であった」

「大きな蟇は、死ななかった」

「貫きとめられたままもがいておった」

「夜になっても」

「翌日の昼になっても、生きていた」

「こわい蟇じゃ」

「蟇とはもともと、あやしの獣ぞ。それで、わしらはどうしようもできなかった」

「夜になると、貫かれたまま、暗い庭で、その蟇が哭《おめ》くのよ」

「哭く度に、蟇の周囲に、青い炎がめろめろと燃えてよ」

「燃えてよ」

「こわかったな」

「こわかったな」

「蟇が哭いて、青い炎が燃える度に、眠っていた息子の多聞が、熱を出して、苦しそうに呻《うめ》くのよ」

「殺せば、祟《たた》るかもしれず」

「竹を抜いて生かせば、自由になった蟇が、さらに妖《あや》しをなすかもしれず、どうにもならぬところへ──」

「応天門が焼けたのよ」

「応天門が落ちたのよ」

「それが、わしらの仕わざということになった」

「わしらが、呪詛《じゆそ》で応天門を焼いたのだと言われた」

「誰かが、庭で刺し貫かれた蟇が、生きて光っているのを見たのだ」

「その人間が、わしらのことを、妖しの術を為《な》している者がいると、そう言いまわった」

「妖しの術で、応天門を焼いたのだと──」

「申し開きの間もなく、多聞は、熱にうなされて死んでしまった」

「おう」

「おう」

「哀しかったな」

「哀しかったな」

「くやしくてなあ、わしらは、その蟇を殺してよ、火で焼いてしもうたのだった」

「多聞も焼いてしもうたのだった」

「その、残った蟇の灰と、多聞の灰を埋めたのだったな」

「ああ。このくらいの壺《つぼ》に入れてよ、応天門の焼け落ちたその下に、さらに三尺ほど土を掘って、そこに埋めたのだったな」

「埋めたのだったよ」

「わしらが、捕われて殺されたのが、その三日後じゃ」

「こんな首にされたのが、その三日後じゃ」

「それがわかっていたからな」

「わかっていたから、多聞と蟇を埋めたのよ」

「応天門ある限り、それに祟ってやろうとな」

「はは」

「ひひ」

 ふたりが笑ったその時、博雅は、うっかり声をあげていた。

「哀れな……」

 低い声であったが、はっきり、そうつぶやいていた。

 その途端に、ふたりの声が止まった。

「誰ぞ」

「誰ぞ」

 ぎろりと、手の中の首が、凄い視線を博雅に向けた。

 その顔が、鬼の顔になっていた。

「逃げるぞ、博雅!」

 その時には、博雅は、晴明に腕をつかまれ、強くひかれていた。

「そっちか」

「逃がすな」

 声を背に聴きながら、博雅は疾《はし》った。

 ふり返ると、ふたりが追ってくるのが見える。

 手にした首は、鬼の形相で、追ってくるふたりの姿は、宙を飛ぶようであった。

 生きた心地がしなかった。

「すまぬ、晴明よ」

 博雅は言った。太刀に手をかけ、

「ここはおれがなんとでもするから、おまえは逃げてくれ」

「だいじょうぶだ。とにかく牛車に乗れ──」

 見れば、牛車が眼の前である。

「来い、博雅」

 牛車に乗り込んだ。

 牛車が、ごとり、と動き出した。

 いつの間にか、周囲は、あの何も見えない闇になっている。

 博雅が簾をあげて後方を見ると、様々な鬼どもが、わらわらと追ってくるところであった。

「どうする、晴明よ──」

「こういうこともあろうかと、綾女を連れてきたのだ。心配はいらん」

 言って、晴明は、口の中で小さく呪《しゆ》を唱えた。すると、牛車を先導していた綾女が、ふわっと風に煽《あお》られたように宙に舞いあがった。

 わらわらと、さっそく、鬼たちがその綾女に群れてゆく。啖《た》べ始めた。

「よし、今のうちだ」

 綾女が、鬼どもに啖《くら》われているその間に、牛車は、逃げ帰ったのだった。


     五


 博雅は目を覚ました。

 晴明の屋敷の中であった。

 上から、晴明が博雅の顔を覗き込んでいた。

「綾女どのは?」

 起きるなり、博雅は晴明に訊いた。

「そこさ」

 晴明が言った。

 晴明の視線の方向を眼で追うと、そこに屏風があった。女の姿が描かれていたあの屏風であった。

 しかし、その屏風に描かれてあったはずの女の姿が、そこからはきれいに抜け落ちていた。そこだけ、女が立っていたかたちに、絵が消えているのである。

「これが!?」

「綾女だ」

「綾女は、絵であったのか──」

 ぽつりと、博雅がつぶやくと、

「そうさ」

 晴明が言った。

「ところで、どうだ、博雅よ、まだ出かける元気はあるか」

「おう。どこへゆく」

「応天門さ」

「ゆくとも」

 博雅は言った。

 その晩のうちに、晴明と博雅は、応天門まで出かけたのであった。

 黒々とした闇の中に、さらにその闇が凝ったように、応天門はそびえていた。

 晴明の手にした松明《たいまつ》の灯りが、影を揺らして、かえってもの凄《すさ》まじい。

「こわいな」

 博雅がつぶやいた。

「博雅でもこわいか」

「あたりまえだろう」

「玄象の琵琶の時には、羅城門に登ったくせに」

「あの時だって、こわかったよ」

「ほう」

「こわいというものは、それはしょうがないではないか。しかし、武士なればこわくともゆかねばならぬ。だから登ったのだ」

 博雅は言った。

 博雅は、手に鍬《くわ》を持っている。

「このあたりだろう」

 博雅はその鍬で、地面を突いた。

「おう」

 晴明が答えた。

「よし」

 そこを掘った。

 すると、果たして、その応天門の三尺下から、ひとつの古い壺がでてきた。

「出たぞ、晴明」

 晴明は、手を伸ばして、ずっしりとした、その壺を穴の中から取り出した。

 その時には、松明は博雅の手に移っている。

 その灯りの中で、古い壺が、影を揺らめかせている。

「開けるぞ」

 晴明が言った。

「だいじょうぶなのか」

 ごくりと、音をたてて、博雅が唾液《だえき》を飲み込んだ。

「まあ、だいじょうぶだろう」

 晴明が、その壺の蓋《ふた》をとると、ふいに、中から、巨大な蟇が飛び出してきた。

 晴明が、ひょいと、その大きな蟇をつかまえた。

 晴明の手の中で、びくんびくんと、その蟇が、手足を突っ張る。

 いやな声で鳴いた。

「人の眼をしているぞ」

 博雅が言った。

 たしかに、その蟇の眼は、蟇のそれではなく、人のそれであった。

「捨ててしまえ」

「いや、これは、人の気と、歳経た蟇の気が、練り合わされたものだ。めったなことで手に入るものではない」

「どうするのだ」

「いずれ式神として使うかよ──」

 晴明は言った。

 壺を逆さにすると、その中から、人の骨の灰になったものが、さらさらとこぼれ落ちた。

「では、もどろうか、博雅──」

 蟇を手にしたまま、晴明は言った。

 蟇は晴明の屋敷の庭に放された。

「これで、もう、あやかしが出ることはあるまいよ」

 晴明が言った。

 そして、それは、晴明の言った通りになったのであった。

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   鬼のみちゆき



     一


 それを、最初に見たのは、赤髪《あかがみ》の犬麻呂《いぬまろ》と呼ばれる盗人《ぬすつと》であった。

 犬麻呂は、歳《とし》の頃ならば五十ばかりの、髪に白いものの混じる男である。元は、播磨国《はりまのくに》の西雲寺《さいうんじ》という寺の僧であったが、ある時金に困ることがあって、本尊の金無垢《きんむく》の如来像を盗み、それがきっかけで盗人となったものである。

 盗みに入った家では必ず人を殺してゆくのが、この犬麻呂のやり方であった。人を殺し、誰もいなくなった家からゆっくりと金品を盗むのである。それでも、もの陰に隠れていて、なんとか生命をながらえた者もおり、そういう人間の中に、殺した人間の返り血を浴び、頭から真っ赤になった犬麻呂の姿を見た者がいて、その時から赤髪と呼ばれるようになったものである。

 その時、犬麻呂は、息を切らせて、半分走るように歩いていた。

 朱雀《すざく》大路に近い、梅《うめが》小路の油屋へ盗みに入ったのだが、夜半に小便に起きた子供と母親に、忍び込むところを見られ、持っていた太刀《たち》でそのふたりを切り殺し、そのまま何も盗《と》らずに逃げ出してきたのである。

 喉《のど》を掻《か》き切る前に、子供が悲鳴をあげ、家の者が眼を覚ましたからであった。

 梅小路を東へ走り抜け、朱雀大路を南へ向かって歩いているところであった。

 ──夜。

 亥《い》の刻《こく》を、半ば過ぎた頃である。

 白い色をした、十四夜の月が、天の半ばほどにひっかかっている。

 素足であった。

 その素足で、ひたひたと、地面に落ちた自分の影を踏んでゆく。

 神無月《かんなづき》の半ばに近い頃だ。

 素足で踏む土は冷たかった。

 ぼろぼろの直垂《ひたたれ》の裾《すそ》を、腰までめくりあげているため、膝《ひざ》から下が、夜風にさらされたままだ。

 霜こそまだ降りてはいないが、五十を越えた犬麻呂には、冷たい風は骨に染みる。

 右手には、まだ、血に濡《ぬ》れた太刀を握っている。

「ちぇ」

 犬麻呂はつまらなそうに声をあげた。

 女の方を先に刺した時に、胸の骨に刃先があたって、刀がうまく刺さらず、もう一度抜いて刺した。それに時間をとられて、子供を殺すのが遅れたのである。

 だいたい、人は、何かが起こった時、すぐには悲鳴をあげないものだ。

 そのことを、経験で、犬麻呂は知っている。

 ひとりを殺しておいて、その悲鳴をあげられないでいるわずかの間《ま》のあいだに、もうひとりを殺せばいいのである。

 それが、女の方を刺すのに失敗して、二度太刀を動かしている間に、子供の方が悲鳴をあげたのだ。

 その喉に、刃《やいば》を潜らせて、すぐに悲鳴を止めはしたが、その悲鳴は、家中の者の眼を覚まさせるのに充分なものであった。

 やはり、五十を過ぎたせいか、昔のような素速い動きはできなくなっている。

「ちぇ」

 もう一度つぶやいて、犬麻呂は歩をゆるめた。

 追って来る者はない。

 歩きながら、犬麻呂は、直垂の裾を下ろした。

 刀を鞘《さや》におさめようとした時、犬麻呂は、足をそこに止めていた。

 足を止めねば、刀が鞘におさめられないからではない。

 前方に、妙なものを見たからであった。

 青く、光るものだ。

 ぼうっとした、朧《おぼろ》な光──。

 天から降りてきた月光が、そこに、青白く凝《こご》ったように見える。

「牛車《ぎつしや》か──」

 犬麻呂はつぶやいた。

 朱雀大路の南──羅城《らじよう》門の方角に、こちらを向いて、牛車が停まっているのである。

 牛はいない。

 牛車だけであった。

 どうしてこんな所に牛車が停まっているのか──。

 そう考えた時、犬麻呂は、思わず息を止めていた。そこに、停まっていると見えた牛車が、動いていたからである。しかも、真っ直《すぐ》に、犬麻呂の方に向かって進んでくる。

 きい

 と、小さく音が聴こえた。

 車軸の軋《きし》む音である。

 細い、その音が、牛車と共に、闇の中を犬麻呂に向かって近づいてくる。

 きい……

 きい……

 きい……

 最初、その牛車が停まっていると見えたのは、その動きが、きわめてゆっくりとしたものであったからである。

 犬麻呂の舌の根がこわばった。

 どうして、牽《ひ》くもののない車が前に動くのか。

 犬麻呂は、後方ヘ、半歩|退《さ》がっていた。

 その牛車の左右に、やはり、ぼうっと光るふたつの人影を、犬麻呂は見た。

 牛車の右側──犬麻呂から向かって左側に、黒い人影があった。

 牛車の左側──犬麻呂から向かって右側に、白い人影があった。

 奇妙なことであった。

 夜だというのに、その黒い人影も白い人影も、同じくらいにはっきりと見えているのである。どちらの人影も、天から降りてきた月光がその周囲を包んだように、ぼうっと闇に浮きあがっている。

 ──この世のものではない。

 犬麻呂は想った。

 ──これは、化生《けしよう》のものに違いない。

 そうでなければ、牽くものもなく牛車が動くわけはない。

 きい……

 きい……

 牛車と、ふたつの人影が、宙に浮くように歩きながら、ゆっくりと近づいてくる。

 人の寝静まった夜に盗みを働くため、犬麻呂は、これまでにも、何度か怪異に出会ったことはあった。

 ぼうっと燃える鬼火。

 姿は見えぬのに、後方から自分を追ってくる足音。

 崩れた門の下で、捨てられた女の屍体《したい》から一本ずつ髪を抜いている老婆。

 めだまを失《な》くしたと、夜の道端で泣いている、裸の子供。

 しかし、これまでに出会ったどの時よりも、今夜のそれは異様であった。

 しかし、犬麻呂は、肚《はら》のすわった男であった。

 相手が、幽鬼にしろ、狐狸の類《たぐい》にしろ、こちらがむこうを怖れたり、怯《おび》えたりすれば、かえってよくない結果を生むことはわかっていた。

 きい……

 きい……

 近づいてきた牛車に向かって、犬麻呂は、さっき退《さ》げた足を、前に踏み出した。

 牛車と、犬麻呂との距離が、最初の半分ほどになっていた。

 黒い方の人影は、男であった。

 黒い直垂を着た武士である。

 右の腰に、太刀を差し、悠然とこちらに歩を進めてくる。

 白い方の人影は、壺装束の女であった。

 白い単衣《ひとえ》を着、白い被衣《かずき》を頭からかぶり、両手で内側からその被衣を支えている。

 やはり、しずしずと、宙を舞うように、足を前に運んでいる。

 どちらの足音も、車が土を踏む音もしない。

 ただ、

 きい……

 きい……

 と、車の軋む音が聴こえるばかりである。

 とうとう、その車が眼の前に来た時、犬麻呂は、刀を大きく振りあげていた。

「どこへゆくか?」

 声をあげて、低く問うていた。

 通力の弱い狐狸の類なら、この一喝で、消えているところである。

 返事はなかった。

 これまでと同じ速度で、男も、女も、車も、悠々と前に進んでくるばかりである。

「どこへゆくか?」

 犬麻呂は、右手で剣を振りあげたまま、訊《き》いた。

「内裏《だいり》までゆきます」

 女の声が聴こえた。

 車の中からであった。

 簾《すだれ》がすっと持ちあがり、そこから、歳の頃なら、二十七、八ばかりの、美しい女の顔がのぞいた。

 唇はふっくらとし、眼元は涼し気で、十二単衣──唐衣《からぎぬ》をまとっていた。何の香を焚《た》き込めてあるのか、かぐわしい匂《にお》いまでが、犬麻呂の鼻に届いてきた。

 簾が下がって、すぐに女の顔は見えなくなった。

 鼻に、まだ、あのかぐわしい匂いが残っている。

 牛車は、もう、すぐ眼の前だった。

 ゆらゆらと、牛をつないでもいない車の軛《くびき》が、もうそこであった。

 太刀を振りあげて、そこに足を踏んばっていた犬麻呂は、その軛に、不気味なものが縛りつけてあるのを、その時眼にしていた。

 それは、黒々とした、ひと房の、長い女の髪の毛であった。

「あなや」

 犬麻呂は、叫んで、大きく横に転げていた。

 その犬麻呂の横を、しずしずと、牛車が通り過ぎてゆく。

 犬麻呂の鼻に届いていた、甘い匂いが、その時、腐臭に変わっていた。


     二


 |源 《みなもとの》博雅《ひろまさ》は、その縁《えん》の板の上に座して、腕を組んでいた。

 土御門大路にある、安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷の縁である。

 夕刻だ。

 雨が降っている。

 細くて柔らかな、そして、冷たい雨であった。

 その雨に、芒《ぼう》ぼうとした、庭全体が濡れている。

 ここ三日ほど、降り続いている雨であった。

 手入れの、ほとんどされていない庭が、博雅の前に広がっている。

 つい、ひと月ほど前までは、甘い芳香を漂わせていた木犀《もくせい》も、今は花を落としてしまっている。

 庭全体に生い繁っていた草も、ひところの、青々とした勢いは、すでになく、色|褪《あ》せて雨に濡れている。草の中には、立ち枯れて色を変じているものもあった。

 そういった草の間に、龍胆《りんどう》や桔梗《ききよう》の紫が見えている。

 どこかに菊が咲いているらしく、雨だというのに、どうかすると、風のかげんでその菊の匂いが届いてくる。

 博雅の左側には、朱鞘の太刀が置かれている。

 博雅の右側には、長身の、端整な貌《かお》立《だ》ちの男が、同じように座して庭を眺めている。

 陰陽師《おんみようじ》の、安倍晴明である。

 博雅が、岩のように、背をきちんと伸ばしているのに対して、晴明の方は、無造作だ。

 右膝の上に、右|肘《ひじ》を載せ、その右手の上に顎《あご》を載せている。

 晴明と、博雅の間の床《ゆか》の上に、素焼きの皿が載っている。

 その皿の上に、茸《きのこ》が盛ってあった。

 何種類かの茸が混ざったもので、どれも焼かれて火が通っている。

 その皿の縁《ふち》に、焼いた味噌《みそ》が載っていて、茸にその味噌を付けて、ふたりはそれを時おりつまんでいるのである。

 酒の肴《さかな》であった。

 酒の入った瓶子《へいし》と、ふたつの杯が、茸の盛られた皿の横に並んでいる。

 やや大きめの瓶子の酒は、すでに半分以上が失くなっている。

 茸を提げて、いつものように独りで、博雅がぶらりとこの屋敷に姿を見せたのは、一刻ほど前であった。

 珍らしく、晴明本人が、博雅を出むかえた。

「おい、おまえ、本当に晴明だろうな」

 その時博雅が訊くと、

「あたりまえではないか」

 晴明は笑って言った。

「だいたい、いつも、わけのわからん女だとか、鼠《ねずみ》だとかが出てくるから、晴明の顔をしたものが出て来たからといって、すぐにそれを晴明とは信じられないのだよ」

「晴明だよ」

 晴明が答えると、やっと博雅は安心した顔つきになった。

 その途端に、晴明が、低く喉を鳴らして微笑した。

「どうした、晴明──」

「博雅よ。おまえ、そこまで疑っておきながら、晴明の顔をしたものが、晴明だと名告《なの》れば、それを信ずるのか──」

「晴明ではないのか?」

「いつ晴明でないとおれが言った?」

「ああ、わからんではないか、晴明よ──」

 博雅は言った。

「いつだったかは、本当におまえが出迎えてくれたことがあったが、その時でさえ、実をいえば、欺《だま》されたような気もしているのだ。おまえのような、ややこしい話の好きな人間につきあっていては、たまらぬ。とにかくあがるぞ」

 そう言って、博雅は勝手にあがり込み、縁の方に歩いて行った。

 すると、縁の板の上に今、後方に残してきたはずの晴明が、横に寝そべっていた。右の片肘をついて、その右手の上に頬を載せた晴明が、笑いながら博雅を見ていた。

「やはり本物の晴明はここか」

 博雅が言った途端に、縁に寝そべっていた晴明の身体が、そのままふわりと風に飛ばされたように、宙に浮きあがり、雨の降っている庭に漂い出た。

 漂い出た途端に、晴明の身体はふわりと草の上に落ち、そのまま雨に打たれて見る間にしぼみ始めた。

「おう……」

 と博雅が声をあげた時には、草の上に、一枚の、人の形に切り抜かれた紙が、雨に打たれているばかりであった。

「どうだ、博雅」

 後方で声がした。

 博雅は、後方を振り返った。

「晴明──」

 そこに、白い狩衣《かりぎぬ》を、ゆったりと身にまとった晴明が立っていた。

 女のような、紅《あか》い唇に、笑みが浮いている。

「やはり、おれが本物だったろう?」

 晴明が言った。

「わかるものか」

 言って、博雅は、そこに胡座《あぐら》をかいた。

 その時、博雅は、持ってきた竹の籠《かご》を、自分の傍に置いた。

「ほう、茸か」

 晴明が、そこに胡座をかいて、籠の中を覗《のぞ》き込んだ。

「ふたりで、こいつで一杯やろうと思ってきたんだが、持って帰る」

「どうしてだ」

「腹が立ってきた」

「怒るな、博雅。そのかわりに、これはおれが自分で焼いてやろう」

 晴明が、籠に手を伸ばした。

「いや、待て、何もおまえが自分で焼くことはない。いつものように、式神《しきじん》にでもやらせればよいではないか」

「気にするな」

「腹が立ったというのは嘘だ。おまえを困らせてやろうと思っただけだ」

「正直だな、博雅は。いいさ、おれが焼こう」

 晴明は、それを持って立ちあがった。

「おい、晴明──」

 博雅が声をかけた時には、晴明はもう歩き出していた。

 茸が来た。

 晴明の持った皿の上に、焼かれた茸が載っており、香ばしい匂いが漂っていた。

 一方の手の指の間に、瓶子と、ふたつの杯をはさんでぶら下げている。

「すまぬな、晴明」

 博雅が恐縮する。

「飲もう」

「飲もう」

 そして、ふたりは、雨に濡れた庭を眺めながら、一杯やり始めたのであった。

 その時から、ほとんど、会話はない。

「うむ」

「うむ」

 と、互いに相手の杯に酒を注ぎ、酒を注がれる時に、低く声をあげるだけである。

 庭は、ひっそりと夕刻の雨の中に静まりかえり、草や葉の上に落ちてくる雨の音が、わずかに響いてくるばかりであった。

 庭は、晩秋の色であった。

「なあ、晴明よ」

 ぽつりと博雅が言った。

「なんだ」

「こうやって、ここからおまえの庭を眺めているとだな、なんだか、最近はこういうのも、これでいいのだなという気がしてきた──」

「ほう?」

「これは、荒れ果てているというよりは、もっと違う、別のもののような気がするな」

 博雅は、庭を眺めながら言った。

 草が、思うさま、繁った庭であった。

 手入れがされてないのだ。放っておかれているのである。そこらの野山の土地を、そのまま切りとって、この庭へ無造作に置いただけのようであった。

「不思議だなあ」

 博雅は言った。

「何が不思議だ」

「春も、夏も、秋も、同じように草におおわれているだけの庭のように見えるが、その季節その季節で、違う。季節によって、眼立つ草、眼立たぬ草がある。萩《はぎ》などは、すでに花が散ってしまって、すぐにはどこにあったのかわからないが、かわりに、それまでどこにあったかわからなかったような、桔梗《ききよう》や龍胆《りんどう》が見えている──」

「ふうん」

「だから、違うと言ったのだ。しかし、違うとは言うたが、実を言えば、この庭はまったくいつも変わらぬ同じ庭のような気もするのだよ。だから──」

「不思議ということか」

「うん」

 素直に、博雅がうなずいた。

「同じでいるようで、違っている。違っているようで同じだ。しかも、それはどちらかということではなく、この世の有様というのは、それを両方とも生まれつき持っているのではないかという気がしてきた」

「凄《すご》いな、博雅」

 晴明が言った。

「凄い?」

「おまえの言っていることは、呪《しゆ》の理の根本的なところにかかわってくる話だぞ」

「また呪か」

「うむ」

「晴明、おれはいま、せっかく、何かわかったような気分になっているのだから、ややこしいことを言って、わからなくさせるなよ」

 博雅は言って、酒を飲んだ。

 珍らしく、晴明は口をつぐんで、博雅を見ていた。

 博雅は、干した杯を下に置いた。

 ふと、晴明の視線に気づいて、博雅はいったんその視線と眼を合わせ、すぐに、その眼を、また庭に移した。

「なあ、晴明よ、おまえ、あの話を耳にしたか──」

 博雅が言った。

「なんだ、あの話とは?」

「赤髪の犬麻呂が捕まった話だよ」

「捕えられたのか?」

「ああ、昨日だ」

「へえ」

「赤髪の犬麻呂が油屋に押し入ったのが四日前の晩さ。押し入った先の、女と子供を殺して、何も盗らずに逃げた。しばらく都を離れているかと思ったら、この都で捕えられた」

「都のどこだ?」

「西京極の辻を、魂の抜けたような顔をしてうろついているところを、捕えられたんだよ。血のこびりついた刀を持ち、着ているものに、返り血をあびたまま歩いていたので、そこを捕えられた」

「ほう」

「本当は、二日前に、知らせはあったのだ。犬麻呂らしい男が、血の付いた刀を持ったままうろうろしているとな。まさかと思っていたのだが、それが本当で、実際に捕えられたのが、昨日の朝だ」

「よかったではないか」

「よかったにはよかったのだが、その犬麻呂のやつ、どうも鬼《もの》に憑《つ》かれたらしい」

「鬼《もの》?」

「どうも、油屋に押し入ったあの晩から、何も飲まず喰わずで、うろついていたらしいのだよ。捕えられる時も、抵抗すらできないようなありさまだったらしいよ」

「ふうん。それで、鬼《もの》に憑かれたというのは?」

「牢《ろう》の中で、うわごとを言う。ほとんどおまえの呪のような、わけのわからんうわごとだが、それをなんとかつなげてみると、この犬麻呂、油屋から逃げる途中、朱雀大路で鬼《おに》に出会うたらしい」

「鬼《おに》か」

「牛車に乗った鬼だ」

 博雅は、犬麻呂のうわごとからつなぎ合わせた話を、晴明に語った。

「内裏にゆくと、そう、その女は言ったのだな」

 晴明が、博雅に言った。

「そうらしいということさ」

「で、来たのか、内裏に──」

「来なかったよ。そんな話は耳にしていないからな」

「ははあ」

「それで、その牛車だが、消えてしまったのだそうだ」

「消えた?」

「犬麻呂を通り過ぎて、八条大路のあたりまで進んでゆき、そこで消えたらしい」

「犬麻呂が見てたのか?」

「らしいな。朱雀大路を上ってゆく牛車を後方から眺めていると、八条大路にさしかかって、そこで突然に消えたということだ」

「で、犬麻呂は?」

「死んだよ」

「死んだ?」

「ああ。昨夜だ」

「捕えられた日の晩ではないか」

「そうだ。捕えられた時、すでに凄い熱でな。身体が火のように熱かった。それが、夜になって、ますますひどくなり、しまいには、寒い寒いと、がたがた震えながら死んでいったそうだ」

「こわい話だな」

「でな、晴明よ」

「なんだ」

「その牛車の話なんだがな。犬麻呂は、どうも、嘘を言っていたわけではないらしいのだ」

「どうしてだ?」

「実は、その牛車らしいのを見た人間がもうひとりいるのだよ」

「誰が見た?」

「おれの知りあいにね、|藤原 成平《ふじわらのなりひら》という公家《くげ》がいるんだが、この男が女好きでな。あちこちに女をつくっては通っているんだが、その成平が、見たらしいんだよ」

 博雅が、声を小さくした。

「ほほう」

「三日前の晩さ」

「三日前というと、犬麻呂が油屋に押し入った翌日の晩だな」

「ああ」

「で──」

「成平がな、通っている女というのが、西京極に住んでいる。そこへ往く途中で、見たらしい」

「うむ」

「見たのは、亥《い》の刻あたりでな。場所は、朱雀大路と七条大路がぶつかったあたりさ」

 博雅が、晴明の方へ、やや身を乗り出している。

「亥の刻というのは、遅いな」

「別の女にあてた歌を作っていて、遅くなったらしい」

「別の女?」

「間違って、同じ夜に、ふたりの女のところへ、その晩にゆくと文《ふみ》を出してしまったんでな。一方の女のところへ、行けなくなったという文と歌をしたためていたというわけらしい」

「御苦労なことだな」

「で、成平は、車をいそがせて朱雀大路を下って行ったのだが、七条大路を過ぎたところで、その、牛の牽かない牛車に出会ったというんだな──」

 博雅は、話し始めた。

 最初に気づいたのは、連れていた三人の供の者たちであったという。

 ちょうど、雨が降り始めた日の晩で、霧のような細かな雨が、夜の大気の中に満ちていた。月は隠れて見えず、眼を塞《ふさ》いだような闇夜である。

 供の者たちは、それぞれ手に灯《あか》りをかかげて歩いていたのだが、その時、ふと、前方の羅城門の方角から近づいてくるその灯りに気がついたのだという。

 ぼうっとした、朧な光。

 きい……

 きい……

 という、車の車軸の軋む音が響いてくる。

 灯りを持っているとも思えぬのに、どうしてこのように、光を放っているのか。

 近づいてくるのは、牛車であった。

 なのに、軛に牛はかかっていない。牛もかかっていないのに、牛車が近づいてくる。

 その牛車の左右に、黒い直垂を着た男と、白い単衣を着、白い被衣をかぶった女が立ち、牛車と共に、こちらに向かって歩いてくる。

「面妖《めんよう》な──」

 供の者に言われて、簾から外を覗《のぞ》いた成平はそうつぶやいた。

 いよいよ近づいてきた。

「成平さま、これは妖異《あやし》のものにてあれば、疾《と》く逃げ参らせたまえ」

 供の者が言った時、成平の車を牽いていた牛が、ふいに暴れだした。首を打ち振って、横手へ逃げようとする。

 凄い力で、車が横へひねられ、轅《ながえ》の一本が折れて、車はそこに横倒しになった。そのはずみで、軛が牛の首からはずれ、牛はそのまま走って逃げ出した。

 供の者三人のうち、ふたりが、わっと声をあげて牛の後を追って逃げ出した。

 横倒しになった車から、成平が這《は》い出した。

 雨で、土が濡れているから泥だらけである。

 供の者のひとりが、逃げる時に投げ捨てた松明《たいまつ》の上に車がかぶさっていて、簾に火が付き、成平の車が炎をあげて、燃え始めた。

 ゆるゆると成平の眼前まで進んできた牛車が、そこで停まった。すると、牛車の中から、女の声が響いてきた。

「そこをどいていただけますか」

 澄んだ女の声だ。

 しかし、成平は動けない。

 腰が抜けているのである。

「かような夜更けに、女の身がどこへゆかれるのか?」

 成平は、動けぬまま、必死で問うた。

 すると、すっと、簾が持ちあがり、そこから女の顔が覗いた。はっとするほど、さえざえとした肌をしていた。女の唇が静かに動いた。

「内裏までゆこうと思うています」

 女の、ふっくらとした唇が言った。

 成平の鼻に、甘い香の匂いが届いてきた。

 あでやかな、唐衣裳を、女は身につけていた。

 それが、雨の中で燃えあがった車の炎で見えている。

 それでも、成平は動けない。

 動こうとして成平は、その時、軛に縛られているものを、見てしまったのだ。

 黒々とした、女の長い髪。それが、ひと房、軛に縛りつけてあるのである。

 それを眼にして、成平の腰が、もう一度抜けたのだった。

「な、なんと」

 声には出したが、恐怖のあまり、成平には、もう何が何だかわからない。女が美しくて、静かに話すという、それがますます怖ろしい。

「七日かかって参上する途中でございます」

 女が言うその間、両脇の男と女は黙ったままだ。

 それを、横で見ていた供の者は、その時、腰から刀を引き抜いていた。

「やあっ」

 眼をつぶって、震えながら車に切りつけていた。

 ざくりと簾を裂いて、刀が車の中に潜り込んでいた。

 かつん

 という音がした。

 女が、簾の内側に入り込んできたその刃を、歯で噛み止めたのである。いや、その時は、それはもう女ではなくなっていた。

 女は、十二単衣を着たまま、赤い目玉の一匹の青鬼に変じていた。

 ごう

 と、白い単衣を着て被衣をかぶった女が、咆《ほ》えた。

 みるみるうちに、女が四つん這《ば》いになった。

 女の被衣がはずれた。

 女は、白い犬の顔をしていた。

 むこう側に立っていた黒い直垂を着ていた男の顔も、黒い犬のそれに変じていた。

 たちまち、二頭の犬が、刀で切りつけた男に襲いかかり、男の首を噛み切り、手足をばらばらにしてしまった。

 その後に、骨も残さずに、二頭の犬は男の身体を食べ尽くしてしまった。

 その時には、手で這って、成平は逃げていた。

 尻の方で、男の骨と肉の喰われる、ごりごり、くちゃくちゃ、という音が聴こえた時には、背の毛が逆立った。二頭の犬が、また、もとのように人の姿に立って、牛車の横に並んだ。

 ぎい……

 と、牛車が動き出した。

 這って逃げる成平を追い越し、成平のつい鼻の先、七条大路に出たところで、ふっと、牛車も、男の姿も女の姿も消えた。


     三


「それで?」

 晴明が、博雅に訊いた。

「成平は、今、自分の屋敷で熱を出して寝ているよ」

 博雅は、腕を組みながら言った。

「瘴気《しようき》にあてられたのだろうよ」

「瘴気!?」

「うむ。犬麻呂があてられて、死んだのと同じものだな」

「成平も死ぬか?」

「いや、大丈夫だろう。犬麻呂は、人をふたりも殺したばかりで、血まで浴びたばかりだったのだろう?」

「ああ」

「犬麻呂は、特別瘴気にあてられ易い状態だったのだが、成平はそうではなかろうから、五日も寝こめば、元気になる」

 晴明は言って、空になっていた杯に、自分で酒をついだ。

「内裏にゆくと、女は言っていたのだな」

「ああ」

「七日かけてゆくと言っていたんだな」

 つぶやいて、晴明は、杯を唇に運んだ。

「おもしろいな」

「おもしろいものか。それで、おれは困っているのだ」

「何を困っている?」

「このことを、帝《みかど》に報告申し上げた方がいいかどうかということをだよ」

「なるほど。それだけのことが、帝の耳に届いていれば、おれの方にも何かしらの話はあろうよ。それがないということは、まだ、帝には話してないのだな」

「うん」

「そうか」

「昨日、成平に呼ばれてね、それで今の話を聴かされたんだよ。どうしたらいいかとね。だから、今のところ、知っているのはおれだけだ」

「どうするのだ?」

「だから、それをおまえに相談しに来たのだよ。盗人が、うわごとに、言ったことなら、帝のお耳にも聴こえているだろうよ。そのことで、おまえがまだ呼ばれてないのなら、帝もそれをさほどは気にとめてないということだ。しかし、同じ鬼《もの》を、公家のひとりが見て、しかも、供の者がひとり啖《く》われたとあっては、帝も落ち着いてはおられないだろう」

「何故、まだ、それを帝に話してないのだ」

「いや、実はそのことだが、晴明よ、成平が女好きであることは、もう話したろうが?」

「うむ」

「成平め、かの晩に、帝に嘘を申しあげて女の許へ出かけたのだよ」

「なに?」

「その晩は、望月《もちづき》の晩でな。その月を眺めながら清涼殿で、ささやかに歌合わせが開かれることになっていたのは知っていようが──」

「ああ」

「月が見えねば、見えぬままに、その見えぬ月のことを歌にしようということで、成平もその歌合わせに出ることになっていたのだ」

「ははあ」

「成平め、そのことをころっと忘れて、女と逢瀬《おうせ》の文をかわしてしまったのさ」

「女を選んだか──」

「成平め、急の病に伏せって歌合わせには出席できぬことになりましたと、気のきいた歌をひとつふたつ詠《よ》み、月にみたてた鏡をひとつ、使いの者に持たせて、清涼殿までやったのだよ──」

「ふふん」

「今夜は、雲が出たため、月が隠れてしまいました。これではせっかくの歌合わせができません。それで自分は雲の上まで月を取りに出かけたのです。目的の月はこのように手に入れたのですが、天の風に長いことあたったため、急に熱が出てきてしまいました。自分は出席できませんが、この月をお届けいたします──と、そんな内容の歌らしい」

「それで、女のところへ出かけ、鬼に出会うたということだな」

「だから、わかるだろう、晴明よ。鬼のことを告げれば、嘘をついていたことがわかってしまう。それで、成平は、おれに相談したのだよ」

「なるほど……」

「晴明よ、どうしたらいい?」

 博雅が訊いた。

「そうだな。今は何とも言えぬ。この眼で、その牛車を見てみぬことにはな」

「見る? 牛車をか?」

「明日の晩あたりにどうかな」

「明日の晩に、見られるのか?」

「おそらく、朱雀大路と、三条大路の辻で、亥の刻あたりに見ることができよう」

「どうしてそんなことが言えるのだ」

「だからよ、七日かけて、その女は、内裏までゆくと言っていたのだろう」

「ああ」

「最初の晩が、八条大路、その次の晩が、七条大路であったのだろうが」

「───」

「その牛車の消えたのがだよ」

「ああ」

「その間、牛車は、朱雀大路を、内裏の方へ向かって登ってきているのであろうが」

「うん」

「ならば、誰かが偶然にでも見たのでなければ、はっきりとは言えないのだが、三日目は、六条大路。四日目は五条大路。五日目の今夜は、四条大路ということになるだろうな」

「なるほど、そういうことか。しかし、晴明よ、それなら、何故、その牛車は、一日で、朱雀大路を羅城門から大内裏の朱雀門まで、ひと息に登ってしまわないのだ?」

「まあ、先方にも、色々と都合があるんだろうよ」

「ということは晴明、放っておくと、明後日──つまり、七日目の晩には、大内裏の朱雀門の前まで、牛車は来てしまうということだな」

「そういうことになろうかよ」

 晴明が答えると、博雅は、前にも増して、力を込め、腕を組んで庭を見つめた。

「困ったことになった」

 博雅は、濃さを増してゆく庭の闇を見つめながらつぶやいた。

「だから、明日、見にゆこうではないか」

「牛車をか」

「亥の刻になる前に、朱雀大路と三条大路の辻あたりで待ち伏せればよかろう」

「なんとかなるのか、それで──」

「見てからだ。よほど、性質《たち》の悪いものであれば、帝にわけを話して、とりあえず、方違《かたたが》えをしてもらうか、特別な呪法《ずほう》を用意せねばならぬだろう」

「そちらはおぬしの持ち分だからまかせるとして、実は、晴明よ、もうひとつ相談にのってもらいたいことがあるのだ」

「何だ」

「判じてもらいたいものがある」

「判ずる?」

「実は、女から文《ふみ》──歌をもろうた」

「歌!? おまえが女から歌をもろうたかよ、博雅」

「ああ。しかし、もろうたはいいが、おれは歌の方はさっぱりなのだよ」

「歌はだめか」

「おまえの呪と同じで、ややこしい」

 博雅が言った。

 晴明は微笑しただけであった。

 いかつい体躯《たいく》をした博雅は、無骨そうに、いかにも歌などは手におえぬといった風情で座している。しかし、いったん琵琶を弾ずるとなると、この男がと思えるほどの音色を、その撥《ばち》で弾《はじ》き出すのである。

「歌の雅《みやび》は、どうもわからん」

 博雅はつぶやいた。

「で、いつもろうた」

「おう。それははっきり覚えているよ。四日前の午後さ。その時は、帝が写経なされた『般若《はんにや》経』を納めるため、東寺へ向かおうとしていたところでな。清涼殿を辞して、徒歩《かち》にて、承明門をくぐろうとした時であったよ。紫辰殿《ししんでん》の前の桜の陰から、ふいに、歳の頃なら七つ八つばかりの女童《めのわらわ》が駆けてきてな、おれに、いきなり文を握らせるのだよ。その文には、なんと晴明よ、龍胆《りんどう》の花までがそえてあった……」

「ほうほう」

 晴明は楽しそうに微笑しながら博雅を見ている。博雅は、晴明に見られているのを意識して、ことさら無骨そうな表情をしているようであった。

「それで、その文と花に眼をやって、顔をあげると、もうその女童はどこにもいなかったよ」

「ふむ」

「まさか、ひとりでそんな女童があんな場所にいるわけはないから、誰ぞのやんごとない姫君に連れられて、内裏に登っていたのだろうがな。その時、もろうた文を開いてみれば、そこに歌がしたためてあったというわけだよ」

「まあ、その歌というのを見せてみろよ」

 晴明が言うと、博雅は、懐《ふところ》からその文を取り出した。

 それを晴明に渡した。


  かけたるはうしとこそ思へ たまさかに車は何の心をかやる


 それには、女の文字でそう書かれてあった。

「ははあ、なるほど」

 晴明はその歌を眺めながらうなずいた。

「なんだ、何がなるほどなんだ」

「おまえ、どこぞの女につれなくせなんだか──」

「つれなく? そんな覚えはないよ。女につれなくされたことはあっても、こちらからつれなくしたことなどはない」

 顔を赤くして、博雅は言った。

「晴明よ、教えてくれ、それには何と書いてあるのだ」

「だから見た通りさ」

「それがわからないから訊いているのだよ。おれは、こういうことにはうとくてな。ややこしい歌をやりとりして、互いの気持を伝えあうというような雅なまねはできないのだよ。好きなら好きと、手を握ったり握られたりする方が、よほどわかり易い。な、晴明、もったいぶらずに、おれのためにその歌を判じてみてくれよ──」

 博雅の顔は、ますます赤くなっている。

 おもしろそうに晴明は博雅を眺め、

「これはな、つれない男に、恨めしく思っていますという、女の歌だ──」

「驚いたな、晴明よ、どうしてそんなことがわかるのだ」

「たまにしか自分のもとに通ってこない男に対して、怒っているようだな、この女は──」

「ようするに、拗《す》ねてみせているのか」

「まあ、そうだな」

「しかし、どうしてそういうことがわかる」

「まあ、聴けよ。男が女のもとへ通うのに使うのは車だ。人がその車を牽く場合もあろうが、まあ、この場合は牛だな。牛車だ。車に牛を掛けて、牛に車を牽かせるわけだ」

「それがどうした」

「だから、その車に牛を掛けることにひっかけて、わたしが心に�懸《か》け�ているのは�憂《う》し�ですよと、男に対して言っているのだよ」

「ほほう」

 博雅の声が大きくなった。

「丁寧にも、そのひっかけた言葉の謎解きも、この歌はしていてくれてるではないか──」

「謎解き?」

「ああ。�車は何の心をかやる�と書いてある。ここまでされて、�うし�が、牛にひっかけた�憂し�であると解けねば──」

 そこまで言って、晴明は言葉を切った。

「解けねば何なのだ、晴明──」

「いや、解けぬところがいかにも博雅らしいということさ」

「おれを馬鹿にしているのか」

「いや、おれは、そういう博雅が好きだと言うているのさ。博雅は博雅でよい──」

「ううむ」

 半分は納得しかねている様子で、博雅は唸《うな》るようにうなずいた。

「で、博雅よ、おまえ、この歌に覚えはないのか」

「ない」

 はっきりと、博雅は言った。

「ないがしかし、気になっている」

「何がだ」

「いや、おまえの判じたものを聴かされているうちに、気になってきたのだ。この歌をもろうたのが、あの、牛のない牛車が出た日であったからな」

「そうだな」

「何やら関係がありそうな、なさそうな──」

「わからぬが、もしかすると、文にそえてあったという、龍胆が、何やらいわくを秘めていそうだな」

「龍胆が──」

「とにかく、明日の晩に、見にゆくことにしよう。その牛車をな」

「ゆくか」

「ゆこう」

「ゆこう」

 そういうことになった。


     四


 雲が、動いている。

 黒い雲であった。

 その雲の中に、月が出たり、入ったりしている。

 天を動いている風が疾《はや》いのだ。

 夜空の半分以上は、黒い雲におおわれていた。ところどころに雲の割れ目があり、そこから覗く夜空は、驚くほど透明で、星が光っていた。

 雲が動き、月を飲み込み、また、月を吐き出す。

 月が、天空を駆けているように見える。

 月が、雲の陰から現われると、晴明と博雅が身を隠している欅《けやき》の濃い影を、地上にくっきりと落とした。

 亥の刻になったばかりである。

 晴明と博雅は、その欅の陰に身をひそめて待っていた。

 朱雀大路と三条大路とが、交わったあたりで、羅城門の方向に、少し朱雀大路を下った右側である。

 朱雀院の高い塀を、背にするかたちで、晴明と博雅は、通りの方を眺めている。

 博雅は、左腰に、太刀を下げている。

 鹿革の沓靴《かのくつ》をはき、袍《ほう》を着て、左手には弓さえ握っている。戦《いくさ》装束である。

 しかし、晴明は、普段着にしている白い、動き易い狩衣を、さらりと身に纏《まと》っているだけだ。

 太刀さえ、身に帯びてはいない。

 あたりは静かであった。

 人影はどこにもなく、見えている屋敷や塀の影は黒ぐろとしているばかりで、灯《あか》りはおろか、鼠のたてる物音さえ聴こえない。

 聴こえてくるのは、頭上で風に騒ぐ、欅の葉音ばかりである。

 足元には、落ちたばかりの欅の葉が、風にさらさらと流れてゆく。

「本当に来るのかなあ、晴明よ」

 博雅が言った。

「来るだろうよ」

 晴明が答えた。

「昔からな、路と路とが交わる場所、辻は魔性の通り路なのだ。牛車が、そこから現われ、そこから消えてゆくとしても、不思議はない」

「ふうん」

 と博雅が答え、ふたりはまた黙った。

 時だけが過ぎてゆく。

 そこへ──


  きい……


 低く音が聴こえた。

 小さく、車の車軸が軋む音であった。

 晴明の肩に触れていた博雅の身体が、堅くなった。

 博雅が、左手で、太刀の鞘を握り締めたのだ。

「来た」

 晴明が言った。

 果たして、羅城門の方角から、ぼうっと青白く光るものが近づいてくる。

 牛車であった。

 牽く牛もないのに、その牛車が前に進んでくる。

 その左右には、話の通りに、男と女が並んで、牛車と共に歩《あゆ》んでくる。

 男の方は、太刀を右腰に下げていた。

 朱雀大路を、ゆっくりと、牛車が近づいてきた。

「おい、晴明よ、あの男、左|利《き》きなのかな」

 ふいに、博雅が言った。

「何故だ」

「太刀を、右の腰に差している」

 博雅がそう言った時、晴明が、ぽん、と博雅の肩を叩いた。

「凄いぞ、博雅。なるほど、そうか、そういうことであったよ」

 晴明にしては珍らしく、低いけれど、嬉々《きき》とした声をあげた。

「どうしたのだ、晴明」

「いや、おまえのおかげでな、わかったことがあったのだ」

「何だ」

 博雅が言ったその言葉は、晴明の�しっ�という低い声に遮《さえぎ》られた。

 晴明は、牛車を見ていた。

 牛車が、三条大路まで、あとほんの少しというところで、停まっていた。

 晴明と博雅のすぐ先である。

 軛に結んだ黒い髪も、はっきりと見てとれる。

 ──どうしたのか。

 と、見ていると、車の簾の陰から、澄んだ女の声が響いてきた。

「そこに隠れているのは、どなたですか」

 声が言った。

「見つかったか……」

 低く言った博雅の口を、晴明の手が塞《ふさ》いだ。

「あの声に答えたり、大声をあげたりしなければ、見つからない。この樹の周囲に、結界を張っておいた──」

 ──しかし。

 そう言いたげな眼で、博雅は、晴明を見た。

「あれは、おれたちのことではない」

 博雅の耳に唇を寄せて、晴明が囁《ささや》いた。

 その時であった。

 大気を裂く鋭い音がした。

 しゅっ

 と、一本の矢が夜気の中を疾り、車の簾を貫いた。

「あれ」

 高い女の声が、簾の中からあがった。

 車の左右にいた男と女が、凄い眼つきになって、矢の飛んできた方を睨《にら》んだ。

 ふたりは、ぶるりと、身体をひと振りさせた。背を丸めて四つん這いになっていた。犬に変じていた。二頭の犬は、ひょいひょいと車の上に跳び乗って、簾の中に潜り込んだ。

 その牛車を囲むように、三条大路の陰から、何人かの人影が跳び出してきた。

 皆、手に太刀を握っている。

 その太刀が、闇の中で、月光にしらしらと光る。

「やったか?」

 人影のひとりが、低く言って、車に駆け寄った。

 遅れて、ふたりの男が姿を現わした。

 ひとりの男は、赤あかと松明《たいまつ》をかざし、もうひとりの男は、よろめくような足取りであった。

 そのふたりが、�やったか�と声をあげた男の横に並んだ。

「火を、火をはなて」

 よろめくような足取りで出てきた男が言った。その男だけ、手には何も持ってはいない。

「成平──」

 博雅がつぶやいた。

 成平であった。

 成平は、足をもつれさせながら、そこに立ち、車を見つめていた。

 松明を持った男が、車の簾に、炎を押しつけた。

 簾が、赤く燃えあがった。

 その時であった。

 ふいに、炎の中から、青く、太い、毛むくじゃらの巨大な腕が伸びてきた。

「あっ」

 と、成平が声をあげた。

 巨大な手が、成平を捕えていた。

 鉤爪《かぎづめ》が、成平の喉や胸に潜り込んでいる。たちまち成平が、その燃え始めた車の中に引き込まれた。

 車が、

 ぎい……

 と、動き出した。

「成平どの」

「成平どの」

 皆が口ぐちに成平の名を呼び、車に切りかかるが、刃は、車にはねかえされるばかりである。

 車を引き止めようとする者もあったが、車は停まらずに、ゆるゆると三条大路へと動いてゆく。

「成平!」

 博雅は、叫んで、樹の陰から走り出ていた。

 晴明がその後を追った。

「痛や」

「痛や」

 という、成平の声が、燃える簾のむこうから聴こえてくる。

 こりこり

 という骨を齧《かじ》る音。

 車の中で、成平が、生きながら鬼に啖《く》われているのである。

 晴明と博雅が駆けつけた時には、車は、すでに三条大路の中ほどに出ていた。

 すうっと、燃えたまま車が消えた。

 その車が消えた後の、三条大路と朱雀大路の真ん中に、首の無い、成平の身体が転がっていた。

「成平……」

 博雅が、小さくつぶやいた。

 博雅の足元で、血まみれの成平の身体が、しらしらと天からの月光を浴びているばかりであった。


     五


  かけたるはうしとこそ思へ たまさかに車は何の心をかやる


 縁に座した晴明の膝先に、博雅がもらったという歌が置いてあった。

 それを挟むようにして、博雅が座している。

 晩秋の陽が、庭に注いでいた。

 ここ数日の冷たい雨で、すっかり、庭の色が変わっている。

 秋は、深まり終わり、初霜を待つばかりの庭であった。

「なあ、晴明よ、今夜だぞ──」

 博雅が、深刻な面持ちで言った。

 晴明は、何を考えているのか、ぼんやりと歌に眼をやったり、庭に視線を向けたりしている。

「おれがこうしてやってきたのは、さっき説明した通りだよ」

 博雅が言う。

 成平が、昨夜の行為におよんで、牛車の件が、ついに帝《みかど》の知るところとなったのである。

「成平め、おれと晴明にまかせて寝ておればよいものを、手の者を連れて、自ら妖物退治に出かけて、退治するどころか、逆に妖物に啖われてしもうた……」

 博雅がつぶやく。

 そこで、今朝、博雅が帝に呼ばれ、色々と成平の手の者たちと一緒に、事情を訊かれることとなったのだった。

 本来であれば、晴明も呼ばれるところであったのだが、晴明の居場所だけがわからない。この屋敷へ何人も使いの者が出たのだが、屋敷には、晴明のいる様子はない。

 そこで博雅ならばあるいはと、晴明の屋敷へと遣わされたのである。

 誰が行っても、いないものは同じではないかと思いながら、晴明の屋敷へ博雅がゆくと、そこに晴明がいたのである。

「いたのか」

 と、博雅は晴明に訊いた。

「いた。ずっと調べものをしていたのだ。使いの者が来たのは知っていたが、わずらわしいので、ほうっておいた」

「調べもの?」

「鏡について、ちょっと知りたいことがあってな」

「鏡だと?」

「うむ」

「鏡がどうしたのだ」

「いや、鏡のことはもう済んだのだが、おれが今、頭を悩ませているのは帝のことよ」

「帝?」

「そうだ。女のことには違いないのだろうがな──」

 晴明は言って腕を組んだ。

 最初に、そういうやりとりがあっただけで、それから晴明は、ほとんど口を開いてない。

 庭を眺めながら、博雅の言うことに、あいまいにうなずいているだけであった。

「そうか──」

 ようやく晴明が声をあげてうなずいた。

「今夜、朱雀門で、あの牛車を待ちうけると言っていたな」

「ああ。おれの他に、気のきいた者が二十人。坊主が五人──」

「坊主?」

「東寺の方から、呼んだ坊主だ。魔霊調伏の呪法《ずほう》をあげるのだそうだ。今からその準備を始めているよ」

「はは」

「坊主の呪法では駄目か?」

「そんなことはない。そんなことはなかろうが、難かしいものはあろうよ。それに、このことの原因がわからぬままとなってしまっては、おもしろくないではないか」

「おもしろくも、おもしろくなかろうも、今夜だぞ」

「わかってる」

「原因などと言っていられるか」

「しかし、わかるかもしれん」

「わかる? どうしてだ」

「訊くのだよ」

「誰にだ?」

「帝にさ」

「しかし、帝は、何も身に覚えはないと言うていたぞ」

「あの歌のことは話したか」

「いやまだだ」

「それならば、少し、あの男に伝言を頼まれてくれ」

「あの男?」

「帝にだよ」

「馬鹿、晴明。おまえ、帝のことを、あの男だなどと──」

 博雅はあきれている。

「いいか晴明、おれ以外の人間の前で、帝のことを、あの男だなどとは言うなよ」

「おまえだから言ったのさ」

 言いながら、晴明は、歌の書かれた紙片を拾いあげた。

「この歌と、帰りぎわに、庭から龍胆《りんどう》を一輪摘んで、一緒に帝に渡してくれ。これは、本当は帝に来たものだと言うてな」

「帝に?」

「ああ。間違えたんだよ。むこうがな、帝とおまえをだ」

「どうしてだ」

「その話は後だ。それで、全ておわかりになるはずだ。たぶんな──」

「おれにはさっぱりわからないよ」

「おれにもわからないが、帝にはわかるということだ。博雅に、帝の方から、色々とたずねてくることがあるかもしれないが、その時には、おまえの知っているだけのことを、全て、隠さずに話してもよい」

「ふうん」

 博雅には、何が何だかわからない。

「それで、帝が、この歌のことをおわかりになったら、よいか、ここからが肝腎《かんじん》なのだが、どうか申しわけありませんが、帝のお髪《ぐし》をひと房、この晴明がいただきたいと言っていたと、申しあげてくれ。帝がうなずかれたら、その場でおまえがお髪《ぐし》をおあずかり申しあげてな、その場でこう言うんだ」

「なんと言うのだ」

「こたびのことは、わたくし博雅と、安倍晴明が、きちんといたしまする故、今夜、朱雀門の前から、お人ばらいをお願い申しあげたいと──」

「なに」

「つまりだ、博雅とおれの他は、皆帰してしまえということだ」

「できるのか、そんなことが?」

「もし、帝が髪をお切りになれば、まあ、できるということだ。おれを信用したということだからな」

「もし、うまくゆかなければ?」

「その時は、また別の手がある。まあ、大丈夫だろうとは思うが、うまくゆかない場合は、誰か使いの者をよこすか、戻橋のあたりで、誰かにうまくゆかなんだとつぶやかせれば、それでおれにはわかる。その時は、こちらから、内裏まで出かけてゆくよ。何事もなければ、そのままでよい。今夜、亥の刻になる前に、朱雀門の前で会おう」

「で、これからおまえはどうするのだ」

「寝る」

 短く晴明は言った。

「実は、このことで調べものをしていたら、鏡のことが色々とおもしろくなってな。ついさっきまで、関係ない古鏡のことまで、あれこれ調べていたのさ。だから、昨夜からほとんど眠ってはいないのだ」

 博雅は、歌と、龍胆とを持って、晴明の屋敷を出た。


     六


 月に晧々《こうこう》と照らされた朱雀門の前に、晴明が姿を現わしたのは、亥の刻に入ってからであった。

「遅いぞ、晴明」

 博雅が言った。

 博雅はすっかり、戦|装束《しようぞく》に身を包んでいる。

 腰には朱鞘《しゆざや》の太刀を帯び、弓まで手にしていた。

「すまん。少しばかり、寝すぎてしまったのだ」

「おまえが、来なければ、おれひとりでどうしようかと思っていたよ」

「で、うまくいったのだな」

 晴明が訊いた。

 門の周囲には、人影はない。

 見上げれば、月の天に、黒々と高く朱雀門がそびえているばかりである。

「ああ。あの龍胆と、歌をごらんになられた途端に、帝は、はらはらと涙をこぼされて、そうか、ひと夜のこととて、今は忘れていたが、そうであったか、すまぬことをしたと、眼を閉じておっしゃられた。髪も、ほれ、このとおりひと房いただいてきた」

「他に何か言うておられたか──」

「晴明に、心づかいを感謝すると伝えてくれと──」

「ふうん」

「もし、あの女が、死霊としてやって来るのなら、おそらく今夜は初七日であろうから、ひと晩、清涼殿で女のために、念仏していようと──」

「頭の良いお方だ」

「なあ、晴明、感謝というのはどういうことなんだ?」

「いや、ひとばらいのことさ。誰でも、昔の女のことは、あまり他人には知られたくないということだろうよ。たとえ、それが帝でもな」

「初七日というのは?」

「人が死んでから、魂がまだこの世にとどまっている間が七日だ」

 晴明がそう言った時、


  ぎい……


「む」

「む」

 晴明と博雅は、同時に、その音の方に眼をやった。

 と、音が聴こえた。

 むこうから、ゆるゆると、月光の中を牛車がやってくるのが見えた。

 弓を手に、博雅が、思わず、足を一歩前に踏み出しかけた。

「待て──」

 晴明が、その博雅を押しとめた。

「帝の髪をもらえるか」

 晴明は、博雅の手から、帝の髪を受け取ると、すっと前に出た。

 牛車が停まった。

 簾が、焼けて失くなっていた。

 車の内部には、暗黒が見えているばかりである。

「邪魔をいたすと、怖い目をみますよ」

 その闇の中から、女の声が響いてきた。

「すまぬが、あの男を、おまえと一緒にやるわけにはゆかない」

 晴明が言うと、車の、簾の失くなった闇の中に、女の顔が浮かびあがった。その顔が、たちまち、おどろの青い鬼の顔に変じていた。

「一緒にゆかせるわけにはいかないが、かわりのものを持ってきた」

「かわりのもの?」

「あの男の髪の毛だ」

 晴明が言うと、

「おう」

 鬼が声をあげ、その口から、めらり、と青い炎が吐き出された。

「おうおう……」

 泣きながら、鬼は狂おしく首を振り始めた。

「遅れたが、あの歌と龍胆は、あの男に渡したぞ」

 晴明が言った。

 鬼は、おうおうと、さらに大きく首を振って哭《な》き出していた。

「あの男、ぬしの歌を見て、すまぬことをしたと、涙を流しておられたそうな」

 晴明は言って、つうっと前に出ると、牛車の軛に結んであった髪の上に、手にもったひと房の髪をかぶせ、上から結んだ。

「おおう!」

 鬼が、ひときわ高い声をあげた。

 ぱっ、と白い光が走り、鬼も、牛車も、男も女も消えていた。

 地面に、ただ、月光を浴びて、ひとつになった男と女の黒髪が落ちているばかりであった。

「すんだぞ」

 晴明が言った。

「すんだ? 本当にか?」

 博雅が訊いた。

「ひと通りはな」

「なに!?」

「もう、これで、あの女の鬼が、あの男を悩ませることはあるまいよ」

「あの男?」

「帝さ」

「晴明、帝のことを、そのように呼ぶものではないと、おれは言ったではないか」

「博雅の前だけよ」

「しかし、本当に大丈夫なのか?」

「たぶんな」

「たぶんか」

「ところで博雅、まだ初七日の晩は過ぎてはおらぬだろうな」

「まだだ」

「ならば、このことを帝に御報告する前に、少しつきあわぬか」

「つきあう? どこへだ」

「今の女の元へさ」

「なに!?」

「おもてだっては、帝がやるわけにはいかぬだろうから、我等が、あの女の亡骸《なきがら》を見つけて、それなりのやり方で葬《ほうむ》ってやろうということさ」

「女の亡骸だとか、何だとか、おれにはよくわからぬが、帝のためにそれを為すのであれば、どこへつきあうも、おれに異存はない」

「では決まったな」

「しかし、どこへつきあうのだ」

「場所の見当はついている」

「どこだ」

「たぶん、内裏をはさんで、反対側にあたる山中のどこかであろうよ」

「何故、そんなことがわかる」

「鏡魔法《きようまほう》を、女が使ったらしいからな」

「鏡魔法だって?」

「博雅よ。それを教えてくれたのは、おまえだぞ」

「おれが? おれがいつ、晴明にそのようなことを教えたのだ」

「男が、太刀を右の腰に差していることに気づいたのは、おまえではないか」

 晴明は、言いながら、前に歩いてゆく。

「待てよ、晴明、おれは何のことかよくわからないよ」

 晴明は、博雅の声が耳に届いているのかどうか、そこに立ち停まると、身をかがめて、地に落ちていた、ふた房の髪の毛を拾いあげていた。

「さて、ゆこうか」

 晴明が言った。


     七


 鬱蒼《うつそう》とした、杉の森であった。

 博雅の手にした松明の、灯りが、苔蒸《こけむ》した杉の根や、岩を照らし出している。

 森に入って、すでに半刻は歩いている。

「どこまでゆくのだ、晴明よ」

 博雅が言った。

「女のところまでだ」

 晴明が答えた。

「だから、それは、どこなのだ」

「さて」

 晴明は言った。

「このような怖ろし気な場所をゆけば、女の鬼ではない、別の鬼に出会うかもしれぬではないか」

「そうだな」

 晴明の答は素っ気ない。

「おいおい、晴明よ」

「鏡魔法で造られた、霊気の道が、まだわずかに残っている。それをたどっているから、いずれはつくだろうよ」

 晴明が言う。

 月の光も、ひとすじ、ふたすじしかこぼれてこない、深い、黒《くろ》ぐろとした森であった。

 すでに、博雅の手にした松明《たいまつ》は、四本目になっていた。

 その時、ふいに、晴明が立ち停まった。

「どうした、晴明」

 博雅が、やはり立ち停まり、身体を緊張させた。

「どうやら、ついたようだぞ」

 晴明が言った。

 言われて、博雅は、松明の灯りを前方にかざした。

 すると、少し先の暗がりの中、森の底の下|生《ば》えの中に、ぼうっと白い影が見えた。

 ひときわ大きな、杉の根元であった。

 濃い闇が、その白い影の周囲を包んで、霧のように動いているようであった。

 森の大気が、冷たくなっている。

 博雅の口から出てゆく息がない。

 その白い影は、ぼうっと微光を放っているようであった。

 ゆっくりと、晴明が、白い影に向かって歩いてゆく。

 その後に博雅が続く。

 やがて、その白い影の前で、晴明が足を停めた。

 女であった。

 白い装束《しようぞく》に身を包んだ女が、枯れかけた下生《したば》えの中に正座をして、静かに晴明と博雅を見つめていた。

 しばらく前に、車の中で鬼に変じたあの女の顔であった。

 三十歳をいくらか越えているように見える。

「お待ち申しあげておりました」

 女の、赤い唇が動いたとも見えぬのに、声が響いてきた。

「これを、渡しておこう」

 晴明が、懐から、ふた房の黒髪を取り出した。

 それを、女の前に差し出した。

 女は、その髪に頬ずりをし、唇をあてた。

 その髪を両手に握り、そのまま両手と一緒に膝の上に置いた。

「見ろよ、晴明──」

 博雅が言った。

 女の後方の、大きな杉の幹に、ひとつの鏡が打ちつけられていた。

 その杉の根元に、二頭の、犬の屍《しかばね》らしきものが倒れている。

 そして、微《かす》かな腐臭が、夜気の中に溶けていた。

「さて、聴かせてもらえるか──」

 晴明が言った。

「鏡魔法は、主に女があやつる法だが、あなたは、あの男とどのような関係にあったのかな」

「はい」

 女が、静かに答えた。

「今から、思いおこせば、十五年前のことでございます。わたくしが、初めて、あのお方とお会いしたのは、わたくしが、まだ、十七歳の時でございました──」

「十五年前というと……」

「まだ、あの方が帝におなりになる前のことでございます」

「うむ」

「あのお方が、わたくしの家にやってまいりましたのは、ちょうど、秋でございました。あの方は、鹿狩りをしていて道に迷い、道を捜しているうちに、山中で暮らしているわたくしの家の前に出たのだと、わたくしの母に申されました──」

「母?」

「はい。もう、十年前に亡くなりましたが、元は宮中におつかえしていたものでございます。それが、故あって、都より離れた山の中に住むようになったものでございます」

「それで?」

「あのお方がいらした時は、もう夕暮れで、供の者ともはぐれ、一緒にいたのは、今、わたくしの後ろで屍《しかばね》となっている、二頭の犬だけでございました──」

 女は、淡々と、細い声で言った。

 晴明は、静かに、女の言葉を聴いていた。

「その晩、あのお方は、わが家にお泊りになり、たったのひと夜ではございましたが、わたくしと契《ちぎ》りを結んだのでございます──」

「ほう」

「あのお方は、翌朝、必ずむかえにくるからと、わたくしと母とに言い残し、出てゆかれました。二頭の犬は、そのおり、あの方がわたくしの家に置いていったものでございます。それが、十五年前でございました……」

 言って、女は言葉を切り、さめざめと涙を流した。

「それから、ただの一日とて、あのお方のことを忘れたことはございません。明日は来る、明日は来ると思いながらの十五年でございました。その間に、母は死に、そしてわたくしは焦がれ焦がれての、焦がれ死に──それが七日前でございました」

「───」

「お恨み申しあげるあまり、食物が喉を通らなくなり、もうわが生命もないと覚悟した時、生きて会えねば死して会おうと、この場所にて外法《げほう》をおこなったのでございます」

「それで鏡魔法を?」

「はい。そこの鏡は、代々わが家に伝わってきたもので、昔、わが家が盛んであった頃に、時の帝さまより、賜《たま》わったものでございます──」

「二頭の犬は?」

「わたくしが、小刀にて喉を突いて殺したのですが、十五年、共におりますうちに、わたくしの心が通じていたか、さからいもせずわが手にかかったのが、哀れでございました」


  かけたるはうしとこそ思へ たまさかに車は何の心をかやる


 晴明は、その歌を小さく口にして、女を見た。

「歌の意味はわかったのだが、添《そ》えてあった龍胆《りんどう》の花の意味がわからないのだが──」

 晴明は言った。

 女は、顔をあげ、

「わが名は龍胆と申します」

 短く、きっぱりと言った。

「なるほど、そういうことであったか」

 晴明はうなずいた。

 女は眼を伏せ、

「このお髪《ぐし》をいただき、今は、恨みも晴れましてございます……」

 両手に握っていた、ふた房の黒髪を胸に抱いた。

「あさましき姿となり果て、関係なき人の生命まで奪うこととなり、心残りはそのことのみ……」

 女の声が、細く、小さくなった。

「ありがとうございました」

 すっと、女が、仰むけに倒れた。

 晴明と博雅が、女に歩み寄った。

 松明の灯りをかざしてみれば、半分肉を腐らせた、白|装束《しようぞく》の女が、胸にふた房の黒髪を握って、そこに倒れているばかりであった。

 晴明と、博雅は、黙ったまま、女の屍を見下ろしていた。

「やっと死ねたのだな……」

 ぽつりと、博雅が言った。

「うむ」

「晴明よ、ひとつ、教えてくれ」

「何をだ?」

「だから、あの歌と龍胆のことさ。あれは本当は、帝のところへ届けられるはずのものであったのだろうが」

「まあ、そうだな」

「おまえは、間違えたのだと言っていたが、それがどうして、間違えておれのところへ届けられたのだとわかったのだ?」

「般若経さ」

「般若経?」

「おまえ、歌をもらった時に、帝が写経したばかりの般若経を持っていたのだろう?」

「ああ」

「それで、間違われたのさ」

 晴明は言った。

「そうか」

 言って、博雅は、しみじみと、松明に照らされた、女の顔を見下ろした。

「鬼とは、哀れなものなのだな……」

 低く、博雅がつぶやいた。

 半分腐れた女の顔であったが、唇は、小さく微笑を浮かべているようであった。

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   白《しら》 比《び》 丘《く》 尼《に》



     一


 雪が、降っている。

 柔らかな雪であった。

 風はない。

 ただ、天から雪が降りてくるだけである。

 開け放した戸の向こうに、夜の庭が見えていた。

 芒《ぼう》ぼうとした庭が、一面、雪に埋もれている。

 灯《あか》りは、部屋に点《とも》した蝋燭《ろうそく》の炎がひとつあるばかりである。その灯りが、夜の庭を、ぼんやりと闇の中に浮きあがらせているのである。

 白い闇だ。

 降り積もった雪が、わずかの灯りを内部に染み込ませ、冷たい、白い闇の影《ひかり》に変えて、あるかなしかの微光を、夜の底で放っているようであった。

 枯れた芒《すすき》の上にも、女郎花《おみなえし》の上にも、檜葉《ひば》の上にも、紫陽花《あじさい》の上にも、萩《はぎ》の上にも雪は降《お》り、積もってゆく。それぞれの季節に、それぞれ盛んであった樹々や草も、今は、雪に埋もれてひとつになっている。

 霜月《しもつき》の半ば──

 太陰暦の十一月──太陽暦で言えば十二月である。

 その日の朝には、氷雨《ひさめ》であったものが、昼には雨雪《みぞれ》となり、夕刻には雪となって、夜に入ってからはいよいよしんしんと、天から降りてくるのである。

 その部屋の畳の上に、火鉢《ひおけ》が置いてあり、その火鉢の中で、赤くなった炭が、小さく針のはぜるような音をたてている。

 その火鉢を挟んで、ふたりの男が座していた。

 どちらも胡座《あぐら》をかいている。

 庭を左にして座しているのは、一見して、武士とわかる男であった。

 冬ものの直衣《のうし》を着て、指貫《さしぬき》をはいている。

 三十代後半の実直そうな面構えの中に、どこか、愛敬がある男である。

 |源 《みなもとの》|博雅 《ひろまさの》朝臣《あそん》である。

 博雅と向かいあっているのは、武士ではなかった。

 座っていてさえ、そうとわかる、長身の男だ。

 青みがかった、茶色の眼をした男であった。

 髪が黒く、肌が白い。

 内側の血の色が透けて見えているのかと思えるほど、紅《あか》い唇をしていた。鼻筋が通っていて、どこか、異国人の風貌を思わせる。

 陰陽師《おんみようじ》──安倍晴明《あべのせいめい》である。

 冬だというのに、晴明は、夏と同じ、白い狩衣《かりぎぬ》を、無造作に身につけているだけであった。

 部屋の中とはいえ、戸を開け放してあるため、寒さはほとんど外とかわりない。

 ふたりで、酒を飲んでいる。

 火鉢の横に、盆が置いてあり、その上に何本かの空になった瓶子《へいし》が転がっている。立っている瓶子は一本だけだ。

 盆の上には、別に、素焼きの皿があり、そこに干し魚が盛られていた。

 ふたりは、手酌で酒を飲みながら、干し魚を火鉢であぶって、それを食べているのである。

 風がないとはいえ、戸は開け放たれたままである。

 室内の温度は、外とほとんど変わりはない。

 ふたりは、口数少なく、酒を唇に含んでは、静かに降り積もってゆく雪に視線を注いでいる。

 柔らかな雪の一片ずつが、すでに地に積もった雪に接する時の、小さな、微《かす》かな音までが聴こえてきそうであった。

 その、枯れ果てたかに見える雪の庭に、たった一輪だけ、咲き残っている、紫の花があった。

 桔梗《ききよう》である。その一輪の桔梗の紫が、まだわずかに、雪が隠しきれずに、見えている。

 その色も、ほどなく、降り積もってゆく雪が、隠してしまうだろう。

「静かな雪だな……」

 つぶやいたのは、博雅である。

 雪の庭を見つめたままだ。

 晴明に声をかけたというよりは、おもわず、誰にともなく、その言葉が口から出たものらしい。

「幽《かす》かな雪だな」

 晴明が言った。

 晴明もまた、雪に眼を向けている。

「あそこに見えているのは、何だ」

 博雅は、さっきから、視線を注いでいた雪の中の紫色をしたものについて、晴明に問うた。晴明は、すぐに、博雅の問うたものが何であるのかわかったようであった。

「桔梗だと?」

「そうだ」

「桔梗が、こんな時期にまだ咲いているのか──」

「たくさん咲く中には、そういう花もあるということだな」

 晴明がつぶやいた。

「ふうん」

 博雅がうなずいた。

「そういうものか」

「そういうものさ」

「うむ」

「うむ」

 ふたりでうなずき、また、静かになった。

 しんしんと雪が降り積もってゆく。

 晴明が、干し魚に手を伸ばして、火鉢の火に、指でつまんだままそれをかざした。

 博雅が持ってきた干し魚である。

 博雅が、この晴明の屋敷の門をくぐったのは、夕刻であった。

「ちゃんときたな、博雅」

 やってきた博雅を、晴明はそう言って出むかえた。

「おまえが、おれを呼んだからだよ」

 博雅が言うと、

「そうだったな」

 晴明は、表情も変えずに、そう答えただけであった。

 今朝のことだ。

 博雅が自室で眠っていると、

「おい、博雅」

 声がした。

 その声で、博雅は、眼を覚ましたのであった。

 しかし、眼を覚ましてみれば、自分がどうして眼を覚ましたのかわからない。

 柔らかな、雨の音が耳に届いていた。

 雨か──

 と、思うと、その心のうちを見透かしたように、

「雨だな」

 声がまた言った。

 すぐ枕元である。

 博雅がそちらに視線を向けると、そこに、一匹の猫が座って、博雅を見つめていた。

 黒い猫であった。

「夕方には雪になるぞ」

 その猫が、人の声で言った。

「晴明──」

 博雅はつぶやいていた。

 その猫の発した人の声が、安倍晴明の声に似ていたからである。

「今夜あたり、雪を見ながら一杯やるというのもいいな」

 その猫が言う。

 緑色の、艶《つや》のある猫の瞳が、博雅を見ていた。

「酒は、おれが用意しておくから、おまえが肴《さかな》を何か用意してくれ」

 猫が言った。

「うむ」

 ついつられて、博雅は返事をしていた。

「肴は干した魚がいいな」

「わかった」

「それから、ついでに、ちょっと頼まれてほしいことがあるのだが──」

「何だ」

「太刀《たち》を持ってきてくれ。長くとも短くとも、どのような太刀でもいいのだが、人を五、六人は切り殺したことのある太刀がいいな」

「え!?」

「あるか、そういう太刀が」

「ないことはないが──」

「ならば、それを頼む」

 そう言って、ぽん、と猫は、博雅の頭の向こうへ跳ねた。

 博雅が、あわててそちらへ視線をやると、黒い猫は、もうどこにもいなかった。

 しめきったままの部屋から、猫の姿は消えていたのである。

 猫に言われた通りに、持ってきた太刀は、博雅の横に置かれたままだ。

 人を、六人、切り殺したことのある太刀である。切り殺したのは、博雅ではない。博雅の父である。

 十年以上も昔──今の帝《みかど》が、まだ即位して間もない頃、都の周辺を荒した盗賊の一団があり、その盗賊たちを討つために遣《つか》わされた武士の中に、博雅の父が入っていたのである。

 その太刀で切り殺された六人は、いずれもそのおりの盗賊たちである。

 何故、このような太刀を持ってこいと、晴明が言ったのか、博雅にはわからない。

 訊きそびれたままに、酒を飲み、雪の庭を眺めている。

 夕刻、雪の上につけた博雅の足跡は、すでに消えてしまっているに違いない。

 すでに、そのくらいの時間は過ぎていた。

 博雅と、晴明の他に、広い屋敷の中に人の気配はない。

 夜の庭と同じ、しんとした静寂が張りつめているだけである。

 この屋敷に顔を出したおり、何度か人の姿を、博雅は見かけたことがある。しかし、その人は、本当の人であるのか、晴明が使っている式神《しきじん》であるのか、博雅にはわからない。

 もしかすると、この広い屋敷に、人としているのは晴明ばかりで、あとは、この世のものならぬ、式神やら、もののけばかりであるのかもしれない。

 この屋敷が、本当に、土御門《つちみかど》大路のその場所にあるのかどうかも、考えると博雅にはわからなくなってくる。

 もしかすると、この屋敷に足を踏み入れる人間は、自分ひとりだけなのかもしれないとさえ、博雅は思う時がある。

「なあ、晴明よ」

 博雅は、酒を口に含み、それを喉の奥に流し込んでから、晴明に言った。

「なんだ」

 晴明が、庭から、博雅に視線を向けた。

「前から訊こうと思っていたのだが、おまえ、この広い屋敷に、たった独りで暮らしているのではないか」

「だとしたらどうなのだ」

「淋しくはないのかと思ってな」

「淋しい?」

「人恋しくはならぬのか」

 博雅は、初めて、晴明に問うた。

 問うた博雅のその顔を、晴明が見つめ、小さく微笑した。

 この日、初めての晴明の笑みであった。

「どうなのだ?」

「それは、淋しくもあろうよ。人恋しくもなろうさ」

 他人のことについて話すように、晴明は言った。

「しかし、それは、この屋敷に、人がいるとか、いないとか、そういうこととは関係がないぞ」

「ではなんだ」

「人は、独りよ」

「独り?」

「人とは、もともとそういうものだ」

「人は、もともと、淋しく生まれついているということか」

「そういうところだろうよ」

 人は恋しいが、それはなにも、ここで独りで暮らしているからではないのだと、そんなことを晴明は言っているらしい。

「晴明よ。おれはおまえのいうことがよくわからないよ」

 正直に、博雅は言った。

「ようするに、おまえは淋しいのだろう?」

「困ったな」

 晴明が、苦笑した。

 その晴明を見ていた博雅が、逆に微笑した。

「ふふん」

「何故笑うのだ、博雅」

「おまえでも困るのだなあ、晴明よ」

「困る時もある」

「いい気味だ」

「いい気味か」

「うん」

 博雅は、うなずいて、酒を口に運んだ。

 その間にも、雪は、さらに厚みを増して、地に降り積もってゆく。

 しばらくの沈黙があって、ひとひら、天から降りてくる雪のように、

「優しい漢《おとこ》だな、博雅は」

 ぽつんと晴明が言った。

「優しい? おれがか」

「うむ。おれは、少し、悔いているよ」

「何をだ」

「今日、おまえをここに呼んでしまったことをだ」

「なに!?」

「実は、今夜、これからおまえが見ることになるものがある。それは、もしかしたら、おまえが見ぬ方がよいものであるかもしれぬ」

「それは、どのようなものだ」

 博雅が訊いた。

「そうさな──」

 晴明は、庭の奥に、視線を送った。

 その視線の先に、まだ、雪に埋もれきっていない、あの、桔梗の紫が見えていた。

「あの、花のようなものかな」

「桔梗か」

「うむ」

「桔梗はわかるが、しかし、おまえのたとえがよくわからぬ」

「じきにわかるさ」

「おまえが持ってこいと言った、この太刀に関係のあることか」

 博雅は、自分の横に置いてある太刀に手を伸ばした。

「持ってきたのか」

「ああ。それよりも答えてくれ。この太刀と関係のあることなのか」

「まあ、そうだ」

「どういうことなのか、そろそろ教えてくれよ」

「来ればわかる」

「来る?」

「そのうちにな」

「誰が来るんだ?」

�誰�と口にしてから、博雅は小さく首を振って、

「来るというのは、人か?」

 訊いた。

「人だ。しかし、人ではあるが、人でないものだ」

「え?」

「来ればわかる」

 静かに晴明が言った。

「なあ、晴明、もったいぶるのは、おまえの悪い癖だぞ。おれは今知りたいのだ」

「まあ、待てよ、博雅、話は後だ」

「何故だ?」

「その方が来たからだ」

 晴明は言った。

 杯を置いて、ゆっくりと、顔を雪の庭へ向けた。

 博雅が、つられて、そちらへ視線を動かした。

 そして、博雅は、夜の雪の庭に、ひっそりと立っていたその女をみたのであった。


     二


 雪明りの、白い闇の中に、その女は立っていた。

 黒い僧衣を身にまとい、頭には、黒い布を冠《かむ》っていた。

 遠く、澄んだ黒い瞳《ひとみ》が、晴明と博雅を見ていた。

 唇が、冷たく、薄い。

「晴明さま……」

 その唇が言った。

「来られたか」

 晴明が言った。

「お久しゅうございます」

 その、尼僧らしい姿《なり》をした女が言った。

 透明な、乾いた風のような声が、その女の唇から洩《も》れた。

「あがられるか?」

 晴明が言った。

「汚《けが》れた身なれば、この場所にて結構でございます」

「気にすることはない。汚れるも汚れぬも、人の定めたことでな。おれには関係のないことだ」

「ここにて──」

 静かではあったが、はっきりとした口調で女は言った。

 女の黒い瞳の中に、尖《とが》ったような、炯《けい》とした光が溜まっていた。

「ならば、おれがそちらへゆこう」

 晴明が、立ちあがった。

「動かずともけっこうでございます」

「気にするな」

 晴明は、縁へ出、その板の上に、片膝をついた。

「息災か」

「かわらずに……」

 女が、瞼《まぶた》を伏せた。

 眼をあげる。

 その、瞳を見つめ、晴明は言った。

「何年ぶりかな」

「三十年ぶりでございます」

「そうだったな」

「あの時は、賀茂忠行《かものただゆき》さま──」

「まだ、おれが、陰陽《おんみよう》の道に入ったばかりの頃であった──」

「そして、今夜は晴明さま──」

 青い燐光が、女の眼に、ふうっと燃えあがる。

「不思議な縁だな」

「忠行さまも、すでにこの世の人ではございません」

 女が、低く、さびさびとした声で言った。

 賀茂忠行──安倍晴明の師である。

 陰陽の道に深く通じ、当時の世にあっては、希代の陰陽師として知られた人物である。

「飲むか」

 晴明が、女に言った。

「晴明さまの、おすすめとあらば──」

 女が言った。

 晴明が、立ちあがって、瓶子と杯を手にとった。

 まず、晴明は、自分が左手に握った杯の中へ、右手に握った瓶子から、酒を注いだ。その酒を、三口で、晴明は飲み干した。

 晴明が今、酒を干したばかりの杯を差し出すと、両手の白い指先をそろえ、女が、その杯を受けとった。

 酒を、女が手にした杯の中へ、晴明が注いだ。

「よろしいのですか」

 女が、青い光を溜めた瞳で、晴明を見つめた。

 晴明は、言葉には出さず、微笑してうなずいただけであった。

 三口で、女は、それを飲み干した。

 晴明が、瓶子を、縁の上に置き、女が、杯をその横に置いた。

 博雅は、黙したまま、ただふたりを見つめたままであった。

 女の視線が、すっと、博雅に動いた。

「源博雅だ。今夜、手をかしてもらうことになった」

 言われて、博雅は無言である。

 女が、博雅に向かって、

「お見苦しいものをお見せすることになりますが、お許しを──」

 深く頭を下げた。

 博雅には、手をかすも何も、自分が何をしたらいいのか、まるでわからない。

 わからないまま、うなずいた。

「始めるか」

 晴明が言った。

「始めましょう」

 女が答えた。

 女の黒い僧衣の肩に、白く雪が積もっていた。

 女は、その身体から、するりと、黒い僧衣を脱ぎ捨てた。

 全裸になった。

 痛々しいほど白い肌をした女であった。

 雪の白と、同じ色をしていた。その白い肌の上に、さらに雪が降り積もってゆく。

 闇の色を含んだ白い肌であった。

 女の足元に、濃い影のように、黒い僧衣が落ちていた。

 あえかな女の乳房の上にも雪は落ち、溶けるそばから、さらに次の雪が落ちてくる。

 晴明が、素足のまま、縁から雪の上に降りた。

「博雅」

 晴明が言った。

「おう」

「その太刀を持って、来てくれ」

「わかった」

 博雅が、太刀を左手に握って、雪の上に降りてきた。

 やはり、素足である。

 緊張のためか、博雅も、ほとんどその足に雪の冷たさを感じていないらしい。

 晴明と、女の前に立った。

 女は、身に、一糸もまとわず、そこに立っている。

 股間《こかん》に、淡いかげりが見えていた。

 ──何も訊くまい。

 すでに、博雅にはその決心がついている。

 口を結んで、そこに立った。

「ふう──」

 と、女が、呼気を吐いた。

 その呼気が、薄青い炎となって、ふわりと夜気に溶けた。

 女の眼の光が強くなっている。

 女の、黒い、艶やかな髪は、肩よりもやや長いくらいである。

 その髪も、緑色の炎を発しているようであった。

 女が、そのまま、雪の上に座した。

 結跏趺坐《けつかふざ》──。

 両手を、自分の胸の前で合わせて、眼を閉じた。

 晴明が、無言で、懐に右手を入れた。

 晴明が、そこから二本の、長い、鋭い針を取り出した。絹糸よりも細い針であった。

「む」

 博雅は、声を呑み込んだ。

 晴明が、二本の針のうちの一本を、後方から、女の首と後頭部との境目あたりの髪の中に、すっと潜り込ませたからである。

 ちょうど、片手をいっぱいに開いたくらいの長さの針であった。それが、すうっと半分以上も、女の首の中に潜り込んでいた。

 次が、腰であった。

 女の背骨の下方に、残った一本の針を、晴明は、同じように潜り込ませたのである。

「博雅よ、太刀を抜け──」

 晴明が言った。

「おう」

 博雅は、右手で、太刀を引き抜いた。

 銀の刃《やいば》が、雪の闇に、しらと光を放った。

 鞘《さや》を、そのまま雪の上に投げ捨てる。

 両手で刀を握った。

「博雅よ、この女の中には、鬼が棲《す》んでいる──」

 晴明が言った。

 博雅は、うなずくように、唇を強く結んだ。

「禍蛇《かだ》という名の鬼だ」

「むう」

「その鬼を、この女の身体の中から、これからおれが追い出す。それが、完全に女の身体から放れたら、それを、その太刀で切ってくれ。その合図は、おれがする」

 晴明が言った。

「お、おう」

 博雅は、両足を開いて立ち、刀を、大きく上に振りかぶった。

「三十年に一度の、禍蛇追いの法よ。めったに見られるものではないぞ」

 晴明が言った。

 晴明は、女の首の後ろから突き出ている針の尻を、すうっと唇に含んだ。

 それを唇に含んだまま、抜かずに、呪《しゆ》を唱えはじめた。

 右手は、女の腰に差した針を握っている。

 これまで、博雅が耳にしたことのない呪であった。

 低い韻律と、高い韻律とが、交互に入れかわりながら続く、異国の言葉による呪のようであった。

 ふいに、女の肉体に、びくん、という痙攣《けいれん》が疾《はし》った。

 合掌したまま、女が仰向いた。

 まだ眼を閉じている。

 その顔の表面に、内側から、じわじわと滲《にじ》み出てくるものがあった。

 表情──

 歓喜の表情であった。

 無上の喜びに、身も心も満たされてゆくような、表情であった。

 また、苦痛の表情であった。

 獣に、尻から肉を啖《くら》われているような表情であった。

 ──と。

 その、仰向けた女の顔が、博雅の見ている前で、変化し始めていた。

 何かが、女の顔に浮かび始めていた。

 女の裸身が、博雅の見ている前で、しぼみかけているようであった。

 女の顔に浮かびかけているもの、それが何であるのか、ふいに、博雅にはわかった。

 皺《しわ》であった。

 いく筋もの溝が、女の顔と言わず、身体と言わず、その全身に浮かび始めているのである。

 皺とわかったその時、ぐうっと、女の背骨が、信じられぬくらいに前に曲がった。

 上を向いていた女の顔の中で、かっ、と両眼が開かれた。

 青い炎が燃えていた。

 ぎっ

 と、女が歯をむいた。

 牙が見えた。

 ひゅう

 と、女の唇から、おどろの、緑色の炎が滑り出てきた。

「むう」

 刀を、両手に握って上に振りあげたまま、博雅は、そこに仁王立ちになって、声をあげていた。

 女は、博雅の前で、歪《いび》つな老婆に変じようとしているのであった。

「出てきてるぞ」

 晴明が、針を含んだまま言った。

 股間からであった。

 女の股間から、一匹の、真っ黒な、つやのある蛇が、頭を持ちあげていた。

 女の女陰《そそ》から、その黒い蛇は、身をくねらせながら、姿を見せていた。

「全部出てからだぞ」

 晴明が言った。

 博雅には、晴明に答える余裕はなかった。

 女が、眼を閉じていた。

 完全に、老女の姿になっていた。

 しかし、その、女に浮いた皺に、変化が起こり始めていた。蛇が、滑り出てくるのにしたがって、その皺の数が減り始めているのである。

 下半身からであった。

 下半身から、女の肌が、もとのなめらかなものにもどってゆく。

 結跏趺坐をして、大きく開かれた脚の間から、その黒い蛇は這《は》い出てくる。

 博雅の腕と同じくらいの太さの蛇であった。

 長い。

 腕一本分が這い出て、まだ、半分ほどである。

 みずみずしい、女の、白い両足の間から、これほど凶《まが》まがしいものが出てくるのかと思えるほどだ。

「むう」

 博雅は、太刀を握ったまま、動けない。

「今だ。出たぞ、博雅」

 晴明が言った。

 蛇が、女の股間から姿を現わし、雪の上を這いはじめた。

「おうっ」

 博雅は、声を発して、刃を、その蛇の上に打ち下ろしていた。

 しかし、切れない。

 不気味な弾力が、刃をはね返していた。

「むう」

 博雅は、歯を喰いしばった。全身に力を溜め、握った刀に、ありったけの心気を込めた。

 ぐねぐねと、蛇が動いている。

 なえそうになる気をふりしぼり、

「ぬうっ」

 太刀を打ち下ろした。

 ぶっつりと、何かを切る手応《てごた》えがあった。

 蛇が、ふたつに両断されていた。

 両断された途端に、ふっと、蛇の姿が消えていた。

 女が、蛇の消えた雪の上に、突っ伏していた。

「や、やったぞ、晴明」

 博雅が言った。

 その額に、ふつふつと細かい汗が浮いている。

「うむ」

 その時、すでに晴明は立ちあがっていて、両手に一本ずつの、針を握っていた。

 女の身体から抜いたばかりの針である。

 晴明は、それを懐にしまいながら、

「よくやったな、博雅」

 歩み寄った。

「むむう」

 博雅は、そこに張りついてしまったようになっている左手を、太刀の柄《つか》からむりにひきはがした。その手が、白くなっている。

 よほど強く握っていたのであろう。

「仮にも、鬼を切ったのだ。並の胆力ではできぬことだぞ」

 晴明は言った。

 女が、ゆっくりと、身を起こした。

 嘘のように、皺が消えていた。

 もとの、美しい、憂いを秘めた顔がそこにあった。その瞳にあった、炯とした、青い凄みのある光が消えていた。

「すんだよ」

 晴明が、女に言った。

 女は、黙って、脱いだ、冷たい僧衣を身にまとい始めた。

「ありがとうございました」

 女が、僧衣を身につけてから、静かに頭を下げた。

 その女の上にも、晴明の上にも、博雅の上にも、雪は降り積もってゆく。

「次は、また、三十年後だな」

 晴明がつぶやいた。

 女は、うなずき、

「また、その時は、晴明さまに会えましょうか──」

「それはわからぬよ。三十年も先のことまではな」

 晴明が言った。

 誰も、動く者はなかった。

 長い間、三人は、しんしんと天から、闇の中を降りてくる雪の音に耳を傾けているようであった。

 やがて──

「では、おいとまを──」

 低く、女が言った。

「うん」

 晴明が、小さく答えた。

 晴明の髪の上に、白く雪が降り積もっている。

 女が、頭を下げ、背を向けて、しずしずとそこを後にした。

 振り向かなかった。

 晴明も声をかけなかった。

 そのまま、姿を消した。

 初めのうちは雪の上に残っていた女の足跡も、すぐに、降り続く雪に埋もれて見えなくなった。


     三


「あれは、何であったのだ、晴明よ」

 博雅が訊いたのは、元の部屋にもどってからであった。

「人でありながら、人でなくなったものだよ」

 晴明は言った。

「何!?」

「枯れるから、花なのだよ。枯れぬ花は、すでに花ではない」

「あの、桔梗のことを言っているのか」

「そうだな」

「どういうことなのだ」

「あれもまた、枯れぬ花さ」

「枯れぬ花?」

「あの女は、おれが、三十年前に見たのと、今もまったく、変わってはいない」

「なに!?」

「あの女は、歳をとらぬのだよ。いつまでも、あの二十歳ばかりのあの姿のままなのだ」

「本当か」

「ああ。今年で、三百歳にはなろうかよ」

「まさか」

「三百年前に、千年の歳経た狐にもらって、人魚の肉を食べたという、白比丘尼が、あの女さ」

「───」

「人魚の肉を啖《くら》うと、啖うた人間は、歳をとらなくなる」

「その話、耳にしたことがある」

「それが、あの女よ」

 晴明は言った。

「そして、おれの、初めての女であった……」

 晴明は、まだ戸を開け放したままの部屋から、雪の庭に眼をやった。

 雪は、いよいよ静かに、まだ降り続いている。

「あの女は男に、その身を売って、生きているのだ」

「なんと──」

「それも、身分のない、金もないような者たちばかりにな。ただ同然の値でだ。時には、干し魚一匹で、その身を売る時もあるし、金さえとらぬ時もあるそうな」

 博雅に言うともなく、独り言のように、晴明は言った。

「しかし、歳はとらぬが、とらなかった分の歳は、あの女の身体に溜ってゆき、やがては、鬼と変じてしまうのさ──」

「どうしてだ?」

「男の精を注がれているからな。その男の精が、とらなかった歳と、あの女の身体の中で結びつくからだ」

「しかし──」

「歳をとらぬ、死なぬということは、子をなす必要がないということだ」

「───」

「あの女は、子をはらむことのできぬ身体になっているのだ。子になることのない男の精を三十年も受けていると、その精と、女の身体の中に溜った、とらなかった分の歳とが結びついて、あのような、禍蛇《かだ》となるのだ。ほうっておけば、いずれは女自身も、鬼と変じてしまう……」

「うむ」

「それで、三十年に一度、あの女の身体から、禍蛇を落としてやるのだ」

「そういうわけであったのかよ、晴明」

「禍蛇を殺すには、ただの太刀ではだめだ。何人か、人を切ったことのある刀でなければな」

「それで、この太刀を──」

「そうだ」

 晴明は言った。

 雪は、しんしんと、まだ降り続けていた。

 その雪を、晴明と博雅とは、無言で眺めていた。

「なあ、晴明よ──」

 博雅が言った。

「人とは、いつか、死ぬがよいのだな」

 しみじみとした声であった。

 晴明は答えなかった。

 雪を見ていた。

 しばらく、雪の音を聴いていた。

「なんだか、わけもなく、哀しくなってきたな……」

 博雅が言った。

「おまえは、優しい漢《おとこ》だな」

 黙っていた晴明が、ぽつりとつぶやいた。

「優しい漢か」

「優しい漢だ」

 短く言った。

「ふふん」

「ふふん」

 誰にうなずくともなく、ふたりは小さくつぶやいた。

 それきり、ふたりは黙った。

 雪を見ていた。

 雪は、あとからあとから降り続いて、地上の何もかもを、白い、天の沈黙で包んでいった。

[#改ページ]


    あ と が き



 ずっと以前から、書きたくて書きたくてたまらなかったのが、平安時代の話である。

 闇の話を書きたかったのだ。

 鬼の話を書きたかったのだ。

 その頃には、まだ、闇も鬼も、人の居る空間に残っていたからである。

 そして、安倍晴明《あべのせいめい》という男の話を書きたかったのである。

 その思いがかなって、およそ、足かけ三年ほどかけて、あちらこちらに、ぽつりぽつりと書いてきた、安倍晴明という陰陽師《おんみようじ》の話が、ようやく本になることになった。

 こんなに嬉しいことはない。

 晴明と博雅《ひろまさ》のかけあいは、書いていても実に楽しかったよ。

 いい気分だ。

 できることなら、長い長い長編を、奈良、平安を舞台にして、五〇〇〇枚ほどひたすらやってみたい気分があるのだが、いかんせん、まだ勉強不足で、どうにも書き出せない状態なのである。

 こういうことに関しては恥を知らないもの書きのおれがそういうのだから、これはよほど勉強不足なのだ。

 かなりおもしろい話になる予定であるので、|しこみ《ヽヽヽ》をすませ、何年後かには、えんやこらと書き出したいとは思っているのである。

 ああ。

 それにつけても、旅に出たいのだよ。

 ひとりで自由にうろうろする旅だ。

 できることなら果てしなく異国をさまよい歩きたいのだ。

 おれの知り合いの中には、平気でそういう旅に出ていってしまう人間がいて、いつも、おれは、そういう人間の、ザックを担いだ背を見ては、切なく胸をこがしていたのだった。

「いい話をぶっ書きてえよなあ」

 という衝動と、

「はるばると異国を放浪してえよなあ」

 という衝動とは、どこか、ぼくの場合共通するものがあるようなのである。

 ついでに言ってしまえば、

「どこぞにええ女はおらんかいな」

 という、そういう心持ちとも似ているようなのである。

 不思議なのである。

 とりあえず、山のような仕事をどうするべいかということなのだが、基本的にはおれは書くことが好きなのだった。

 とにかく、困ったものだよ。ま、いいか。ひとつずつ、ひとつずつ、やってゆくというのが、一番確かなやり方なのではあるようなのだよ。

 しかし、その確かな方法ってのは、不満があるよなあ。

 かなりいいかげんなやり方というのも、魅力があるよな。

 行方の知れない旅に出たきりの知り合いがいるというのは、妙に切ないような、少しくやしいような、そのへんの心持ちがおれにはあって、しかし元気でいろよという正直な本音もあって、よろしいおれもがんばっておれをやってゆかねばなるめいよという、そういう前向きの結論をしみじみと出してしまうおれというもの書きは、病的なほどに健康的ではあるな。

 どうだ、驚いたか。

 ペンが走るままに、ほろほろと文字を書いてゆくというのは、なかなかに気分がよろしい。こういうやり方で、小説が書ければ凄《すご》いことになるのだろうな。

 春の宵だ。

 桜の闇だ。

 まだまだ書くぜい。

  昭和六十三年四月十一日

[#地付き]小田原にて   

[#地付き]夢 枕  獏  





 単行本 昭和六十三年八月文藝春秋刊

〈底 本〉文春文庫 平成三年二月十日刊



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